神様


 彼女は、愛された。

 鉄格子が嵌められた窓の隙間から、ちらちらと淡い光が降り注いでいる。それは淀んだコンクリートの灰色と、その上に点々と残された血痕をぼんやりと照らしていた。
 以前から自分より此処に長く居た仲間は、先日何処かへ連れていかれてしまった。
 どうなったのかは大方想像がつく。きっと、殺されてしまったのだろう。戻ってこないことを考えると、そうだとしか思えなかった。
 クリーム色の毛並みはほこりと土で薄汚れていた。申し訳程度に与えられたこの服も、今やもう役割を果たせないほどボロボロになっている。

 彼女は、愛された。愛されていた。美しい調べを歌っていた、あの時までは。

 彼女はかつて歌姫と呼ばれた。誰しもが聴き惚れてしまう歌声は人を招いた。人から人へ彼女の噂は広がっていき、彼女が意識した頃には既に、歌姫と崇められていた。
 千年に一度の逸材だの、天才だの、聴く者を虜にするだのと散々囃し立てられた。けれど彼女にはそんなこと、どうだってよかった。
 彼女は歌を歌うのが大好きだった。どんなに悲しいことがあっても、歌うと不思議なことに、楽しい気持ちが湧き水のようにこんこんと溢れてくる。その心地よさに彼女自身、夢中になっていた。

 異変に気づくのが遅すぎたのだ。
 彼女はひとしきり観衆の前で歌った後、ステージを降りた。その先に待っていた黒塗りの乗用車が目に留まる。そちらに近づこうとした刹那、何者かから背後に薬品を染み込ませた布を当てられ目の前が真っ暗になった。それが最後だった。

 見世物小屋。その主に捕まった彼女を待っていたのは、つらい毎日と受け入れがたい現実。にたにたと薄気味悪く笑う観客の視線が、痛いほど突き刺さる。
 卑しい目を彼女は受け入れなければならなかった。鞭で打たれないために、彼女は懸命に歌った。生きるために全力だった。そのおかげか否か、彼女の歌唱は大反響だった。
 しかしそれが災いし、彼女の課せられる仕事が日に日に増えていった。拒むことも出来ぬまま休まずに歌い続けた結果、彼女の喉は酷く荒れ、傷み、壊れてしまった。
 それを主は許さなかった。ろくでなし、ゴミ、使い物にならないと心無い暴言や暴力で彼女をなじり、乱暴し、弄んだ。

 彼女の心は限界だった。
 見世物にできない者は、いずれ処分されるという。なんということはない、単純に殺されて使命を終えるのだ。
 希望を失った眼で、鉄格子の先を眺めていた。僅かに耳に届くのは、ショーを愉しんでいるのであろう観客の声と、誇らしげに司会を勤める主の解説。
 後何日で私はこの世からいなくなってしまうのだろう。そもそも今の季節は何なのだろう。連れ拐われて、いくつの月日が流れたのだろう。彼女は不安が募り、うなだれた。目尻から涙が垂れ落ちた。

 いつの間にか眠っていたらしい。はっとして顔をあげると、眩しい光が差し込んでいた。明るさに思わずまぶたを閉じるが、彼女はすぐに目を開く。現状についていけなかった。
 自らを閉じ込めていた鉄の檻は、大破されていた。それも、簡単に逃げ出せてしまうほどの有り様だった。
 なんで? どうして? と彼女は疑問を抱く。ひょっとしたらこれは白昼夢なのではないか、そうとすら思えた。

 黒い毛並みと、毛と同じ色のコートが目の前で佇んだ。彼女は驚いて後ずさる。全く面識がない人が、そこにはいた。
 耳の形を見るに、自分と同じ種族の猫種(キャッシィ)だと判断できる。だが今はそんなことより、目の前の人が何故こんなところにいるのか、その理由が知りたかった。
 黒い人は彼女に歩み寄る。彼女はただ、状況を把握するのに精一杯だった。

「あ、……えっと」

 黒い人は彼女の態度に戸惑い、小さく唸る。

「僕、は……君に酷いことは、しないよ……」

 話すのがあまり得意ではないのだろうか、ぽつりぽつりと吐き出される文字の羅列を彼女は汲み取っていく。

「君が、唯一生き延びた娘……だったんだね……」

 黒い人はぎこちなく微笑んだ。
 彼女は目の前の人の言葉で、仲間は全員この世にいないことを悟った。

「あ、ごめん……僕は、クロって言うんだ。もう、……大丈夫だよ」

クロと名乗った男が言い終えると同時に、彼女の両の瞳から大粒の滴が流れていく。
 大丈夫。たった五文字の台詞に、彼女は泣いてしまうほどに安堵していた。
 思わず手が伸びていた。長らく爪を切っておらず、水すら浴びていない汚れて垢だらけの手のひらで、そっと彼のコートを掴んでいた。
 彼はそれを拒絶するどころか、慈しむように彼女の手に自分の手を重ねた。

「大丈夫……だよ」
「……、……ぁ……」

 しゃがれた声が漏れた。昔の面影など無い、がらがらの声。口に出したいことが喉元まで競り上がっているというのに、言葉にならない。そのもどかしさに少しばかり胸がチクリと痛んだが、それも一瞬だった。

 いいの? 本当に、新鮮な空気を吸っても、いいの?
 本当に、これから毎日美味しいご飯を食べてもいいの?
 冷たい地面で、眠らなくてもいいの?
 みんなと同じように、昔みたいに生きてもいいの?

 彼女は心の中で問いかける。クロは彼女の頭に手を伸ばし、優しく撫であげた。

「……いいよ、もういいんだよ」




「あ、……えっと……。そんなことも、あったね……」

 思い出話に浸っていた二人は、切り株に腰掛けて月の光を浴びていた。
 過去を振り返ったクロは恥ずかしさを隠せない様子で、落ち込んだ顔が描かれた仮面を被り直す。

「……あの時は、僕が神様に見えた、って? ……僕は神獣で、あんな高貴なものじゃあ、ないよ」

 嫌だなあ。そう言ってクロは、仮面の奥の口許を緩めた。少女はそんな態度のクロの手を握る。あの頃とは正反対の、清潔になり爪も切った手で握った。
 クロは何も言わずに握り返した。

「椿、……そろそろ、帰ろうか」

 名を呼ばれた少女は嬉しげに頷いた。見知らぬ土地。彼以外の人と話すのは怖いけれど、これから慣れていけたらと椿は思っていた。
 彼と一緒なら、死んでしまった仲間の分まで幸せになれる気がしていた。
 彼女の片足には、壊れた足枷がついていた。




2014/07/08
元歌姫と黒い半神獣。



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