きっかけはいつでも


 始まりはいつだっただろうか。僕は人に無頓着だから、いつから彼に執着されていたのかを思い出すことが出来ない。もとより記憶力は朧気で、その日その日を食いつないで生きていて、明日死んだって別に悔いやしないような人種だったから。
 眉目秀麗、頭脳明晰、琵琶坂永至と聞いて知らない人はいないであろう彼のことは、名ばかりだけれど僕も存じていた。
 そんな彼が、終わりのない学園生活のうち、僕がこの世界が電子で構成された紛い物だと気付くよりもずっと前から、卒業と入学を繰り返しながら幾度も手を変え僕と接点を持とうとしていただなんて。そんな事実、知りたくもなかった。
 メビウスが現実ではない理想の箱庭であると知りながら、それでも素知らぬ顔して僕と距離を縮めようとする彼の思惑は今となってはわからない。……嘘だ。ただ単に、好きだったから近付きたかっただけなんだろう。それこそ、メビウスを手中に収めて優くん達を死に追いやっても、僕だけは死を選ぶことを許してくれなかったのだし。
 いつから好かれていたのだろう。それを本人に聞いても構わないのだろうが、途方もない会話になりそうで気が重くなる。だからもう、出会う前のことは出来うる限り思い出さない方向で行きたい。



 幸か不幸か「卒業」してしまったのは、丁度一年前。優くんと同じタイミングでこの世界が偽りだと理解してしまった。襲い来るデジヘッドの波に飲まれて頭の中が真っ白になる傍ら、高揚している自分にショックを受けていたことを思い出している。

「こっちだ」

 誰かに手を引かれて、ただ走った。息を切らして、それこそ喘息の発作が出るくらい精一杯に。その手を引いていた相手が、琵琶坂永至本人だったのだけれど。
 琵琶坂は今と変わらない、何処か裏のありそうな、仄かに闇の残り香を纏う視線で僕を見ていた。
 取り留めのない対話を二度三度として、メビウスは空想世界で僕らの肉体は別の現実世界にあって、このままでは死んでしまう危険性があること、また己の現実を知ってなお帰らなければならない理由があること。現実に帰るためにはμを説得しなければならないか、──最悪──彼女を殺さなければならないのだということ。そういったことを、雑談を交えながら噛み砕いて説明してくれた。



 その後は、まあ──佐竹や優くん達と色々あって、帰宅部に腰を据えることになって。当然のように、隣には琵琶坂がいた。当たり前だろう? と目が告げているくらい自然に、僕の隣に立っている。
 それをネタに鳴子や美笛ちゃん達女性陣から、からかわれたことも多々ある。けれどあの完璧超人が相手なのだ、ドブ水を煮詰めて作ったような吐き溜めみたいな僕と彼じゃあ、月とすっぽんもいいところである。否定するか、冗談半分に笑って流すしかなかった。
 そんな僕の煮え切らない態度に彼が内心腹を立てていて、もどかしさを感じていて、もっと早く手を出せば良かったと悔いていたのはまた別の話である。



「紫尾」

 しなる鞭の音は乾いている。いつものように楽士達の目を欺きつつデジヘッドを正気に戻していたところ、琵琶坂が僕の名を呼んだ。

「なぁに」
「この後シーパライソにでも行かないか」

 杖に見せかけた銃で敵を撃ち抜きながら返事をすると、彼は轟々と燃え盛る炎を身にまといながら言の葉を綴る。
 シーパライソ。この男は確かにそう言った。メビウスに存在する水族館として名高い(のかはどうかは知らない)それは、僕がよく足を運ぶ場所に違いない。
 デジヘッドが喪失して元の生徒に戻っていく様を眺めながら、ほんの少し考え込んだ。琵琶坂が僕をどこぞに誘うのは、実を言うと初めてではない。戦後のランチだ、少し散歩を、話がある、だとかなんとか適当な理由をつけて僕を外に引きずり出す彼の思惑など、考えたこともない。
 今思えばこれはかなりあからさまなアプローチだが、人に興味が無い僕からすると「ああこいつ僕で暇潰ししたいんだな」と思うのが関の山である。
 それこそ鈴奈ちゃんにデートですかだの、琴乃さんに男は狼なのよだの好き勝手言われていたけれど、何処吹く風、聞いたことは右から左へ受け流す僕のこと、本気で捉えやしなかったのだ。

「うん。いいよ」
「エスコートは任せてくれ。もっとも、君のことだから僕の完璧なプランは知り尽くしているだろうけどね」
「ははは」

 とりとめのない、会話だと思っていた。



 だからこそ。どうしていいのかわからなくなった。

「手を」
「お、わぁ……」

 シーパライソに着くや否や、彼はすっと僕の右手を握る。そのまま手を引かれて中に入っていって、二人して多種多様の魚を眺めていた。
 魚は、好きだ。人じゃないし、何より人から離れた容姿と習性がいい。鱗は星々のように煌めいていて、水面に反射する泡は小さな宝石に見えた。
 ここに来ると、僕達はメビウスにどんなことをしてしまっているのだとか、μを殺さなければならないのかもしれない未来が迫っているのだとか、そもそもなんでこの世界にきてしまったのだとかをほんのひとときでも忘れてしまうことが出来た。
 現実が嫌で逃げてきた僕は、現実を忘れられたはずの場所で、こうして現実から目を背けてしまっている。
 その、なんと愚かなことか。
 それがいけないから、こうして帰宅部の一員として奮闘しているのだけれど。

(……手が、熱い)

 心なしか心臓がドキドキしている。琵琶坂に握られた手のひらが熱を持ったように熱い。いや、人肌が接触しているのだから、熱くて当たり前なのだけれど。
 それにしたって、どうにも落ち着きやしない。彼と二人でいた時は、いつもこうだっただろうか。……思い出せない。過去に興味が無さすぎる。

「な、なんか暑くないかい」
「そうか? 僕は何ともないけどね」
「……なるほど」

 ちら、と横目で琵琶坂を見ると、不意に目が合って。

「ぅ、なんっ……」

 なんでこっち見てるんだよ魚を見ろ魚を! と脳内で暴れる己は蚊帳の外、時が止まってしまったみたいで、琵琶坂から目が離せなくて。

「まだ分からないのか?」
「な」

 何が、と動くはずの唇は硬直してしまって。

「好きだ」
「……え」
「露骨に連れ回していたのだから、とっくに気付いていると思っていたのだが……君は実に他者に無関心だな。少し驚いているよ」

 双眼は、愉快だと言わんばかりに細まって。

「もっとも、それを見越してここに連れてきた訳だ。シチュエーション的にもばっちりだと思うがね」

 全てを計画していたのだと告げている瞳に、吸い込まれそうになる。
 僕は生唾を飲み込んで、けれど視線をそらすことが出来ずに狼狽していた。ストレートに語られる好意に、理解が追いついていなかった。
 あの、琵琶坂が。琵琶坂永至が僕を好き──あんまりにも唐突で、けれど日頃の行動と周りの煽りのせいで妙な現実味があって、だからこそ反応に困る。
 お互いこの姿が現実そのままとは限らない。うんと歳上かもしれないし、逆に年下の可能性だってある。性別や身の上、現実で置かれている環境だとか、そういったことを考慮したら告白なんてやめておくべきだとこの男なら理解してしかるべきなのに。
 なのにどうして、思いの丈を打ち明けているのだろう? と、恐怖心すら抱いてしまう。
 彼は現実での素性を、僕を含めた帰宅部に話してくれている。でも僕は、そうじゃない。かろうじて人外性愛者だと告げたばかりで、本性や、心の底に隠した醜い欲求は端っこですら語ってはいないのに。

「ずっと君を想っていたんだぜ? 君の学年が変わる度にその姿を目で追った。君が卒業するよりもずっと昔から」

 僕の手を握る琵琶坂の左手に力が入る。

「君のありのままを受け入れるから、僕のものになってくれ」

 ──なんにも知らないくせに?
 脳内の自分は、琵琶坂に向けて暴言を飛ばしている。何も知らないくせに軽々しく受け入れるだなんて言わないでくれ、と、今すぐこの手を振りほどいて立ち去ってしまっても良かった。
 なのにそれをしないのは、向こう見ずな僕が、……ひょっとしたら、この男なら本当に──僕の全てを──受け止めて、受け入れて、愛してくれるのではと期待してしまったから。
 そしてその予感は間違いではなかった。幸か不幸か、的中してしまった。
 だからこそ、あんな結末になってしまったというのに!

「……僕でいいの?」
「紫尾でいいんじゃない。紫尾がいいんだ」

 腕を引かれて飛び込んだ。厚い胸板が顔に押し付けられる。人がいる前で堂々とハグするなよ、と悪態をつきたかったけれど、現状の僕は顔を赤くするやら、不安で少し泣きたいやら、でもやっぱりこの男に期待したいやら、つーかいい匂いするな香水でもつけてんのか? と思うやらで、とにかく外野を気にする余裕などなかった。

「僕の紫尾。愛してる」

 ここで首を縦に振らなければ、シナリオは変わっていたのだろうか。……今となっては、分からないことだらけだ。




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