それは優しい甘さを孕んでいる  





 謎の獣が家に住み着いて一週間。何がどう変化することもなく、こいつは今日も俺の部屋の片隅で膝を抱え、何処を見ているのかもわからない濁った眼で地べたを見つめている。

「ほら、夕飯だぞ」

 平たい紙皿に乱雑に盛られた、レトルトのチャーハンは白い湯気をほこほこと立てていた。
 どの図鑑にも載っていない、得体すら知れない目の前の獣は、おかしな事に中華料理を好んで食っているのだ。放置して飢えられるのも目覚めが悪いので、仕方なしに食事を提供している状況である。
獣は無意味に噛んでいた尾を吐き出すと、身を屈めて、まだ温かいチャーハンを食らう。手を使うこともせずただ犬食いを続ける獣は意思があるのか、言葉が通じるのか、それとも新種の動物なのかとんと検討もつかなかった。

「お前は一体なんなんだよ……」

 俺は仕事で疲れた肩を鳴らしてため息を吐くと、ゆっくりと立ち上がる。こいつの世話もいいが、自分の食事も用意しなきゃならない。

「ご馳走様」

 作り置きしていたカレーをレンジで温めて平らげたが、どうにも食べ足りない気持ちを抱える。何かないものか──と冷蔵庫を漁ると、奥の方にパックの杏仁豆腐が二つ残っていた。
 ……ああ、そういえば。スーパーに寄った時、なんとなく甘いものが食べたくなって買ったのだったか。

「何も食わないよりはマシか」

正直気乗りはしなかったが賞味期限が迫っていることもあり、仕方なしに食べようと思った俺はパックを一つ手に取って──ふと、あの獣のことが脳裏をよぎる。
 確か杏仁豆腐も中華料理だったような……気がしなくもない。

「食うのかな?」

 気にならないと言えば嘘だった。
 杏仁豆腐を二つ手に、再び自室の扉を開ける。獣は相も変わらず、自分の尾っぽをあぐあぐと食んで止まなかった。
 蓋をとっぱらって、新しい紙皿の上にスプーンで掻き出した杏仁豆腐を添えてやる。

「ミツアミ、杏仁豆腐食うか?」

 ──ミツアミ。俺がいつしかこいつにつけたあだ名だった。
 ミツアミは瞬きもせずに地面を眺めている。こいつは俺の言葉にも行動にもリアクション一つ寄越さない。本当に愛想のない獣だと思っている。

「要らないなら捨てるけど……」

 そう言いつつ紙皿に手を伸ばすと、獣は両手を地について杏仁豆腐を口に運び始めた。口から覗く木蘭色の牙が光る。その様子がなんだか、獲物を取られまいとする手負いの犬のような──あるいは「もったいない」と口にかけ込むような仕草に思えて、少し笑えてしまった。

「お前といたら、ペットでも飼っている気分になるよ」

 思わず破顔して呟いた俺は、スプーンで自分の分の杏仁豆腐を掬い上げた。
 ミツアミの分の紙皿を片付けた後、俺はリビングのソファに腰掛けてぼんやりとテレビを見つめていた。
 液晶に映し出されているのは、夜のニュース番組だった。野球の試合結果がどうの、とキャスターが話す様を耳で聞き流しつつ、ふと半年前を思い出す。

「足が治ればなあ」

 無意識に呟いていた。
 半年前、試合中に足を怪我してしまい、野球が続けられなくなって。そこからは何かを諦めたような気持ちで野球から離れ、漠然としないまま高校を中退し、望まぬ形で社会人になった俺がいる。
 だからこそ、何気なく呟いてしまったし、あの時足を悪くしなければ──と思うことが、今でもたまにあるのだ。もっとも、医者からは「野球は続けられない」と診断されてしまっているので、叶うはずもないのだが。

「あー……寝るか」

 少しばかり感傷的な気分になってしまい、胸中が生温く重い空気で満たされる。鉛をつけたような足で立ち上がった俺は、ふらふらと自室へと向かう。

「──ミツアミ?」

 いない。

「え、は? 何で?」

 咄嗟に、普段ミツアミがいる部屋の片隅へ駆け寄った。空色の被毛を纏ったあの獣は確かにさっきまでそこにいたはずなのに、立つ鳥跡を濁さずと言わんばかりにその痕跡すら残っていない。
 肺がギュウと痛む。動揺を隠せなかった。

「なんなんだよ、マジで……」

 なんとなく信じきれなくて──信じ難くて、ベッドの下を覗いて見たり、上布団を剥がしたり、棚を全て開けてみたりと無駄な行為に及んだものの、あの獣は見つかる訳もなかった。

「……は、」

 ──あの一週間は夢だったのかもしれない。そう思ってしまうと、乾いた笑みが零れる。気分が沈んだ。
 俺はどうしようもなく苦しい感情を抱えたまま、冷たいベッドに潜り込む。闇に呑まれる気持ちで眠った。たまらなく憂鬱なまま。
 ……そうして、その夜不思議な夢を見た。



 一面星空の広がる場所に俺は立っている。上も下も、全てが眩い星の散る夜空だった。空気は澄んでいて、優しい風が頬を撫ぜる。
 そんな場所で呆けていると、あの獣に似た空色の毛を靡かせた、大きな獣が目の前に現れて夜空を仰ぐのだ。まるで「お前も見ろ」と言わんばかりに。
 訳もわからないままに空を見てみると、眼前で金平糖の粒のようなものがパチパチと弾け飛び、それから夜空いっぱいに流星群が溢れ出す。
 虹色の星々が一点を目掛けて駆けていく。息を飲むほどの美しい光景に、暗い気持ちが晴れていく気がして。
 ──そこで俺は目が覚めた。窓辺で小鳥が鳴いている。重い腰を上げた俺は、いつものように歩き出す。

「……うん?」

 足を踏み出した時、確かな違和感があった。だってこれは、半年前のような──。




「ハダル殿ハダル殿、人間界では期待の新選手が登場したのでありますよ!」

 鼻息の荒いアルコルが、そっぽを向いたままのハダルに語りかけている。
 人間に寄り添う星筆頭のアルコルは、今でも人間の俗世に興味が尽きなかった。今は野球にハマっているらしく、彼の言う新選手は野球のそれを意味する。

「この人はとても凄いのであります! なんと一年前足を怪我してしまい──」

 息巻いて語り続ける少年を後目に、ハダルは誰にも気づかれぬ程度に口角をやんわりと上げた。

(杏仁豆腐ご馳走さん。日本産も悪かなかったぜ、小僧)

 木蓮と白の入り交じった三つ編みが、夜風に吹かれて揺れていた。




2020/12/06
ハダルと夢を諦めていた青年。
執筆日は11月3日でした。




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