「源氏の重宝、膝丸だ」
彼のような眼差しを、僕はもう幾度となく投げ掛けられてきた。
「ここに兄者は来ていないか?」
つい、と蜜色のまなじりが僕の姿形を捉える。彼の言う「兄者」と同じ色の瞳はゆっくりとした動作で僕をねぶった後、やがてやんわりと細められる。
薄緑色の髪は、春風に靡いて緩やかに揺れている。黒を基調とした軍服にも見える召し物は、彼の性格に似て規律を纏っているように思えた。
「呼び声に応えてくれてありがとう。まずは感謝を。僕は貴方にとっての主となる審神者です」
一歩踏み出して、膝丸との距離を詰める。彼は落ち着いた様子でこちらを見据えていた。呼吸に乱れはない。刀たる自らが人の形を取っている事態にも、さほど混乱してはいないようだった。
嫌に落ち着きを払っていて、それが僕としては困ってしまう。
「君が、俺の主か」
面布越しにかち合う視線は、暗にこう言っていた。
──なんて軟弱な振る舞いの主人なのだろう、と。
刀剣男士になめられるのは、今に始まったことではない。それも彼らが生きた時代を考えてみれば、さほど珍しいものでもないのだ。
戦乱の世、女という生き物は現代と違い男に守られるものの象徴であった。男は刀を手に持ち、戦へと駆けていく。そんな男を支えるのが他ならぬ女の役割だ。女はいつも男の後ろで佇み、守護されるものとして存在し続けた。女主人だなんて言葉は、彼らの時代には馴染みがないのである。
殊更昔の考えに引っ張られている──俗に言うジェネレーションギャップの激しい刀は、女の審神者にいい思いをしていない。……なんて話も、聞かない訳では無いのだ。自分は心こそ男であれ、体は紛うことなき女人のものであるから、そういった目でこちらを見てくる刀がいても仕方がないのである。
もっともそういった刀どもも、こちらの指示が的確で信頼に値すると判断さえしてくれたなら──蟠りはとけるのだが。
膝丸。髭切と同じく源氏の重宝を自負する、一振りの太刀。彼がこちらに向けてきた視線は、明らかにこちらを見下したものだった。
見下す、と言っても嘲るようなものではない。彼はただただ「女」としての見方をしているに過ぎない。すなわち守るべきものであって、決して男どもを先導して指示する立場ではないと信じている。それが彼が生きた時代の「当たり前」だったから。
(最近はそういう子に出会ってなかったんだけどな)
慣れこそすれど、落ち込むものは落ち込む。特に膝丸は元が生真面目な気質と聞いている。その彼がああいった目でこちらを見抜いてきたという事実は、審神者として思うところがある。たとえ女であろうと主人は主人なのだと、彼の中で結論づけてくれたならどれほど良かっただろうか。
彼の兄である髭切は、そういった態度をおくびにも出さないタイプだったからこそ、僕は少し油断していたのかもしれない。彼らが打たれた平安時代は女人の方が立場が上だったから、きっと偏見もなく従ってくれるだろうと。本音を言うと 、慢心していたのだ。
上は上であったとしても、守護対象であるという概念は揺るぎないのに。
「僕もまだまだだなぁ」
自嘲気味に苦笑して、ゆっくりと立ち上がる。
今日は悩みの種である膝丸と共に、万屋に出る予定があった。特に緊急に迫られて買いに出る訳ではないのだが、ただなんとなく、新しい刀が来るとそのものと万屋に行くのが一種のルーティーンになっていたのだ。
審神者のものとして与えられた和室の襖を閉じて、口の中でごにょごにょと印を唱える。刀剣男士に知られてはならない機密情報がこの部屋には収められているため、人以外は誰も開けられない結界を張ったのである。
しっかりと印が機能していることを確認すると、僕は足早に玄関へと駆けていく。道中すれ違った加州に爪紅を強請られたため、それに二つ返事をした。どうせならネイルも買ってやりたいな、などと思いつつ。
膝丸は案の定、主であるこちらがたどり着くよりも先に玄関先で待っていた。戦装束から下げている彼の本体は、陽の光を浴びて煌めいて見える。
「ごめん、待たせてしまった」
急いで謝罪の言葉を口にすると、彼は気にもとめていない態度でこう返した。
「主が易々と臣下に謝るんじゃない」
万屋は、他ならぬ審神者と刀剣男士のために用意されている。本丸と同じように時空の狭間にその存在を許されており、各時代の品物が所狭しと並べられているのだ。
膝丸は万屋への同行を拒絶しなかった。あくまでこちらを「主」として接するよう努めているのだろう、客観的に見ると彼の行動はいたって謙虚でスマートに思える。
ただ、あの美しい瞳から放たれるものばかりは、どうにも嘘がつけないようで。何やら僕に不満があるらしく、時々眉根を寄せることだってあったのだ。
(言われない方が、結構堪えるんだけどね)
心中で何度目かの苦笑を零して、僕は膝丸よりも前を歩く。彼は決して僕よりも先に行きはしない。彼との歩幅の違いを考えると、随分とゆっくり歩いてくれているのだと思う。女だからやはり歩くのが随分と遅いのだな、と内心文句を垂れていても、きっとおかしくはない。
「……あれ?」
「どうした」
もう沢山歩いた気がしているが、それにしては一向に万屋の姿が見えない。緩く首を傾げた後、膝丸には「なんでもないよ」とだけ返した。
奇妙な違和感が募る中、僕は独り思案に暮れる。膝丸は怪訝な眼差しをこちらに向けた後、辺りを見渡して小さくため息を吐いた。
万屋への道は一方通行だった。野道がすっと一本に伸び、他は林ばかりで道らしい道はどこにもないのである。だからこそ、万が一方向音痴であろうと万屋には確実に辿り着くことが可能なのだ。
だというのに、万屋はおろか道を進んでいるという感覚がない。これはどうにもおかしい。だが、何がおかしいのか、その正体を掴みかねている──。
「主」
疑問ばかりが浮かぶ中、膝丸は静かに、けれど唐突に口を開く。
「伏せろ」
刹那、林の陰から時間遡行軍と思しき短刀が飛び出してきた。その刃先は確かに僕へと向かうものの、膝丸の言葉通りしゃがんだおかげで一撃を免れる。
ヒュン、と風を切る音が至近距離で鳴った。膝丸の助言がなければ、間違いなく顔にあの刃が──そう思うと、少々身震いしてしまう。
生憎恐れはない。そんな可愛いものを抱けるほど、僕は感情が育ちきってはいない。抱いたのは、ただただ「予想外の出来事が起こった」という興奮だけ。
顔を上げると、膝丸は既に短刀を斬り捨てていた。黒い煙を上げて消えていく短刀を、僕はどこか熱に浮かされた状態で眺める。
膝丸は鋭い眼差しをもって林の奥底を睨んでいる。
「まだいるのかい」
「ああ。未だ瘴気は断ち切れておらん」
腰を上げると、膝丸は僕を庇うように立ち直した。こればかりは彼に甘える他ない。何せ僕は審神者であって、時間遡行軍そのものと戦えるような力は持っていないのだから。
「万屋へ向かっているのではなかったのか?」
「そのはずなんだけどね。何か予期しないことが起こったらしい」
膝丸という刀は本当に綺麗なものだ、と、僕は彼の本体を眺めながら感じていた。この状況下でなければ、不躾にも「もっと近くで見せてくれ」と軽々しく頼み込んでいたかもしれない。
もっとも、もっと親しい関係にならなければ、そう簡単に声をかけられはしないのだけれど。
「居るのは分かっている。来なければ此方から赴くぞ」
膝丸がそう吼えた直後、巨大な一振りが草木を押しのけて伸びてきた。
「なっ……!?」
実に一瞬の出来事だった。受け身を取ることも出来ぬまま、僕と膝丸は吹き飛ばされる。
僕は全身を激しく木で打った。その影響か、少しばかり意識が朦朧としてしまっている。こんな事態で気を失いでもしたら、それこそ死に直結することはわかっていた。だからこそぼやけた視界と膨張した脳みその感覚に舌打ちをしたい気分になりながらも、なんとか目を開いて現況の把握を優先する。
「膝丸!」
膝丸は大太刀にその自由を奪われていた。
時間遡行軍の大太刀は、刀剣男士よりも何倍も大きな身体を持っている。巨大な手で膝丸を握りしめているそいつは、力を入れて折りにかかっていた。だらりと下がっている彼の右腕には、本体がしっかりと握られている。
苦しげな膝丸の様子に、思わず息が詰まった。彼はまだ顕現して日が浅い。戦闘にも出したが、まだ実戦経験は皆無だ。その状態で大太刀を相手取るのは、あまりにも。
(……無謀だ、無茶だ)
勝ち目がない、と率直に思った。
「膝丸! 本体だけは折られないように!」
意味があるのかないのかわからない助言を咄嗟に放つと、膝丸はこちらに視線を投げた。目は口ほどに物を言うとはよく言ったもので、彼のあの目で意思の疎通がはかれたことを瞬時に理解できた。
けど、それだけだ。他にやりようがあれば、今すぐにでも行動に移っているのだけれど。僕は一介の審神者であって、彼らのように武器を手に取って時間遡行軍と互角に戦える能力は所持していない。
(どうすればいい? 何をしたら彼を助けられる?)
機転を利かせて動くほどの力が、僕にはなかった。だってただの人の子だ。膝丸を今も握り潰さんとしている化け物は、神降ろしの儀式でようやく降ろした付喪神の分霊でなければ、倒しようがない──。
悔し紛れに髪を掻きむしると、ぬるりとしたものが手のひらにまとわりついた。輪郭がぼやけて仕方ない視界に映りこんだのは、鮮やかな赤色である。それを見て初めて、己は流血しているのだという事実に気づいた。
先程から意識が覚束無いのは、どうやらそのせいらしい。出血多量で今すぐにだって気絶してしまいそうなのだろう。どうにも、実感がないが。
「ある、じ……!」
膝丸の絞り出すような声に、はっと顔を上げる。
彼は歯を食いしばりながら、なんとか大太刀の拘束から逃れようと足掻いていた。懸命に身をよじっている。彼の黒靴から滴り落ちているものは、僕同様流れて間もない血に他ならなかった。それはぱたぱたと地べたに落ち、赤黒い染みを形作っている。
「っ、にげ……!」
逃げろ、と言いかけた言葉は彼の喉奥で消えた。
苦しげに呻く膝丸は、とうとう抵抗する力を無くしていく。右手に固く握られていた彼の本体は、やがてするりと抜け落ち音を立てて地面に転がり込んでしまった。カシャン、と乾いた音が耳に届く。
大太刀はそれを見てさも満足気に笑みを深くすると、膝丸を握る腕に更に力を込めた。ミシミシと嫌な音が膝丸から鳴る。
このままでは、本体を折られるよりも先に膝丸の息の根が止められてしまう。焦燥感が己を襲う。かといって力づくでどうにかできる相手ではない。ないのだ。
──刀は血を吸う、と言いますが。
血と、いえば。
不意に脳裏を過ぎったのは、審神者が集う定例会議で講師に問いかけた言葉。
──刀剣男士の本体に審神者の血を吸わせたら、どうなってしまうんですか?
質問を受けた講師の表情を、海月は今だってよく思い出せる。
大きく眼を見開いて、気まずげに一寸ばかり視線を泳がせ、それからまたすぐに海月をしっかりと射抜いてみせたのだ。
「一時的に戦力の強化が見込めます。ですが……」
血を吸った刀は、人を惑わせる。だからこそ、付喪神を宿したその刀身で、霊力を持った審神者の身を斬るとどうなってしまうのかは未知数だと。
だからやめた方がいい、と。
(……なるほどね)
海月は破顔した。おかしくてたまらない、といった様子で。
(どうせこのままじゃ二人とも死ぬんだ。なら……)
どうなったって構いやしないのだ、今更。
海月は木にもたれ掛かりながらようやく立ち上がると、傍らまで転がり込んでいた膝丸の本体に手を伸ばす。両腕で握りしめると、不思議なことに心の臓のような脈拍を手のひらから感じることが出来た。
膝丸はまだ息をして、必死に戦っている。主として認めてはいないはずの審神者のために、そして己の正しさと源氏への誇りを胸に、折れてやるものかと食らいついている。
海月は弱気になるのに飽きてしまった。ならば今度は、どう転んだって愉快で仕方の無い事をしたい。そう思いながら重い両腕に力を入れて、太刀を持ち上げる。伸びた刃先は滑らかに海月の首に向けられた。
膝丸は我が目を疑った。審神者が自身の本体を、その首にあてがっていたのだから。どう見たって自決を試みている姿にしか見えない。彼はやり切れない気持ちでただ呻いた。言葉にすらそれはならなかった。
膝丸の瞳に映ったのは、我が主の首に、自身が食い込んでいく姿で──。
勢いよく赤色が宙を舞った。紛れもなく鮮血だった。膝丸が正気を保ったまま映した世界は、それきりだった。
海月は首を少しばかり斬ると、疲れきった様子で膝丸を地べたに落としてしまう。あてがった刃に己の気が全て吸い取られていく感覚を味わっていた。
そればかりか、斬った部位が悪かったらしく血が止まらない。急速に意識が揺らいでいくのを感じながら、海月は自らの悪手に悪態をついた。
輪郭がぼやけていく視界の中、海月はついと指を指す。指先は確かに大太刀へと向いていた。
「斬れ」
か細い声だった。風に吹かれて飛んでいきそうなくらい、あまりにもか細い声だった。けれども、膝丸にはそれで十二分に事足りた。
本体が、霊力を持った審神者の血を吸った。たったそれだけの事象を得て、膝丸の身体には有り余る神力が満ち満ちている。少し力を入れてしまうだけで、大太刀の拳から逃れることは容易かった。
膝丸はよろめくこともなく着地すると、審神者が手放した本体を拾う。刃先にまとわりついた赤黒い液体はあまりにも禍々しく見えるのに、今はそのおかげで力が溢れて仕方ない。
たまらなく興奮している。大太刀も審神者も何もかも関係なく全てを斬ってしまいたいと強く願うほどに。けれど、それを己の矜持が赦しはしないのだ。
源氏の重宝として生きた誇りと、女の身でありながらも勝機の糸を手繰り寄せた我が主の期待に答えることを放棄し、刀としての本能に呑まれるだなどと。そんな事をしようものなら、畜生や妖となんら変わりないではないか。
膝丸から漏れる吐息は、強かに笑っていた。
「やあやあ我こそは!」
地を蹴り上げる。高々と舞った薄緑色の刀は、今まさに大太刀へと振り下ろされた。
「──源氏の重宝、膝丸なり!」
加州が目にしたのは、血まみれで息も絶え絶えの膝丸が、顔の白い審神者を担いでやっとの思いで帰還した姿だった。
ずりずりと脚を引きずって玄関先に倒れ込んだ刀剣は、喉奥から空気の切れる音を漏らして加州を見上げている。
「主を、頼む……」
加州の返事も聞けぬまま、膝丸の意識は白んでいった。一時的に力の底上げをしただけで、彼はとっくに限界を超えていたのだ。
加州は声一つ出せないままに僅かに狼狽えた後、大声で本丸内にいる刀共へ応援を要請した。それから膝丸の言う通り審神者を担いで薬研藤四郎の元へと駆けていく。
──彼等が体験した事案は、万屋へ至る道へ仕掛けられた新たな罠として時の政府をざわつかせることとなった。暫くは厳重な警戒を説かれたが、結局原因は不明なままで、対策を取ろうにも取りようがない状況である。
その事を知った海月は「まあそんなもんだよな」と鼻で笑い「時間が経てば特定されるだろう」と続けた後、呑気にも卵がゆを食む。
それから、まだ完治には程遠い上体を起こしたまま縁側へと視線を投げ、花から花へと飛び移る蝶々を眺めながら「いい天気だなあ」と呟いて、命の危機に瀕した経験などよそに、今日だって平和を謳ってやまないのだ。
一方、膝丸といえば。手入れ部屋へ慌てて担ぎ込まれた為、後遺症などは残らず。すっかり完治したあとは、心機一転鍛錬に励んでいた。
その身を投げ打ってでも死地をくぐり抜けようとした審神者の姿に胸を打たれ、どうにも考えを改めたらしい。彼はきっと最期まで、源氏の重宝として海月に力を貸すこととなるのだろう。
弟が主を斬り血を吸った事を知った「兄者」が「弟ばかりずるい。僕も斬らせておくれ」と言いながら、審神者を追いかけ回す事態になるのは──また別の話である。
2021/05/06