一日目



 朝は嫌いだ。目を刺す太陽の光が、無理矢理に私を眠りから連れ出してしまうから。

 布団の中はさながら揺りかごのようだと思う。温かくて、何処と無く優しい気持ちになるこの場所は、私が唯一落ち着ける場所だった。
 ゆっくりとまぶたを開けた。何度か夜中に目を覚ましてしまったからなのか、意外にもすっきりと起きることができた。重苦しい体を持ち上げてベッドから抜け出した。寝癖により所々カールした髪が、頬や目尻を撫でる。しかしそれすらも気にならなかった。

 私は今日、自殺する。

 机に立て掛けられた麻縄を手に取った。脳裏をよぎるのは、今までに受けた屈辱。十数年生きてきて良いことなど一つもなかった。こんな世の中、腐ってる。そう信じて疑わなかった。
 手首に残された真新しい切り傷の痕がちりちりと痛んだ。慣れ飽きたこの痛みとも今日限りでお別れだ。そう思うと、何故か少し物悲しい気になった気がした。
 着古したパジャマ姿のまま、玄関へと向かう。頭髪はぐちゃぐちゃだった。目は幾度となく泣き腫らしてしまった。唇はかさついていた。
 最期くらい目一杯女性らしい格好をしてみようかとも思ったのだが、そんなことをする気力すら残っていなかった。
 冷たいドアノブに手をかける。頭の片隅に描かれたのは、首を吊るに相応しい大木が立っている、とある森林の奥深く。出来ることなら一瞬で楽になれたらいいなあ、なんてことを心中で呟きながらゆっくりと扉を開けた。

 目に飛び込んできたのは、あまりにも非現実的な光景。気を病みすぎてついに幻覚を見るようになってしまったのかと一瞬だけ思ったのだが、どうやらそれは違った。受け入れがたい真実だった。
 耳をつんざく羽音。そして人々があげる悲鳴。鼻につくのは紛れもない血の臭いだ。反射的に嘔吐感が込み上げ、思わず口に手を当ててしゃがみこむ。

 本来の大きさからけた外れた体を持つ虫達が、そこには溢れ返っていた。幼少の頃踏んづけて殺してしまったアリが、軽自動車程の図体で人間の首を噛みちぎっている。巨大な二対の翅を羽ばたかせて空を舞うのは、昔に焦がれたアゲハチョウだった。その風圧に人々は身動きがとれず、撒き散らされる鱗粉の餌食となる。
 生臭い鉄の香りに、眼前がフラッシュを起こした。耐えきれずに胃の中のものを吐き出した。目頭が熱を帯び、温い液体となって地面にシミをつくっていく。
 しかし予期していなかった異常事態に防衛本能が働いたのか、うまく動かない体を引きずってなんとか家に滑り込み急いで鍵を閉めた。
 その直後、激しい地響きに体が傾く。頭がガンガンと激痛を訴える。口内は胃液で不快感を醸し出していた。

(何……あれ……?)

 状況を把握しようと思い、リビングへと這いながら移動する。途中再び吐き気に襲われたが、胃液くらいしか出るものが無かったのでぐっと堪えた。
 ほこりをかぶったテレビのリモコンを手に取り、それをブラウン管テレビにかざす。電源ボタンを親指で押したが、どういうことか反応がない。そこではッとした。そうだ、電気代を払っていなかったのだった。
 
 自殺しようとしただけなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。未だに現状が理解しきれていない。本当にわからないのだ。虫が突如あんな巨大な生物になるだなんて、今までの常識を全て覆していることと同じだ。
 へにゃりと地べたに座り込んで、呆然と遠くを見つめる。死ぬ気が失せてしまった。というよりも、自害するよりも先に虫に殺されてしまう気がする。
 虫に殺されるのは、嫌だ。蹂躙されるのか、捕食されるのか、はたまた別の殺し方をされるのか私にはわからない。けれど虫は嫌だ。
 何故なら、気持ち悪いから。ただそれだけだ。
 幼少期は別段気にする存在でもなかったし、実際に捕まえて観察をした過去だってある。しかし中学生にあがってから、どういう訳か急に虫に対する恐怖心が芽生えた。年齢を重ねる毎に「自分」が変わっていくとは言われているが、あまりにも唐突で私自身理解に苦しむ。
 とりあえず水を飲もう。頭を冷やしたい。私はそう思い、ゆっくりと立ち上がった。しかし足が動くことはなかった。水道も止められていたことをすっかり忘れていたことを思いだし、行動するに至らなかった。
 口の中は胃酸で苦々しい風味のみが残っている。頭痛と胸焼けに引き続いて、目眩すら起こりそうだった。

刹那、目の前の壁から、ぴしりと音をたてて白い生物が顔を出した。頭の中が真っ白になる。巨大な大顎はコンクリートをいとも簡単に噛み砕くと、細長い胴体ごとずるりと地面に這い出した。
 たぶん、シロアリ、だと思う。
 背骨を悪寒が駆けて行く。心中で警告音が鳴り響く。逃げなければいけないと脳がひっきりなしに悲鳴をあげている。しかし人間というものは、本当に恐怖した時、あまりのショックに体が動かない。
 白く淀んだ眼が私の姿を捉えた。喉の奥で声が漏れる。

 動かない足を引きずって、ベランダへと走った。急いで鍵を開けてばっと外に飛び出る。太陽光が目を刺激してくるが、そんなことに構っている余裕はない。柵を必死になって飛び越えてただひたすらに家から逃げた。
 ベランダを出た先は中央に柱時計を構えた中庭があった。中庭とはいったものの、地面はレンガ張りで辺りには数本の木しか生えていない。ざっと見渡した限りでは、異形の存在となってしまった虫は見当たらなかった。
 後ろを振り向いて自宅の方に目を向ける。シロアリの姿はなかった。
 安堵して腰を下ろす。なんとかやりきったらしい。あのまま無理にでも逃げ出していなかったら、私はシロアリに惨殺されていただろう。九死に一生を得た気分だ。

 何ヵ月も走っていなかったところを無理に走ったせいか、胸の辺りが締め付けられるように痛んだ。その上胸焼けと頭痛までする。目眩すら起こりそうだった。
 息を吸うことでさえ苦痛に感じ、思わずむせ返った。何度か咳を繰り返していると、じわりと目尻に涙が浮かぶ。鼻がつんとした。
 自殺しようとしただけなのに何がどうなっているのか、まるでとんでもない世界に来てしまったように思える。……嘘偽りなき真実なのだろうけれど。
 これからどうしよう。ずっとここにいる訳にはいかない。シロアリが責めてくるのは時間の問題だった。

 影が差した。日向が日陰に変わる瞬間は、嫌いじゃない。ちょっとしたマジックショーを見ているようで、少しだけ胸がドキドキする。
 呼吸を整えて顔をあげると、目の前にカマキリが立ち尽くしていた。それも普通のカマキリじゃあない。何メートルもある巨躯を細い四本の脚で支えた、馬鹿でかいカマキリだ。不気味にこちらを見つめる瞳は透き通っているが、中央部に黒目が伺えて、それが気味の悪さを助長している。
 腰が抜けて力が出ない。非力な私は、ずりずりと後ずさるしかなかった。圧倒する存在に戦意を削がれ、畏怖に身を震わせることしか出来ない。

 きっと誰だって知っている。カマキリは、肉食性だと。

 逃げなければここで食われて死んでしまう。逃走本能が働くよりも先に、カマキリの鎌が私に向けて振りかざされた。視界が暗転する。

 そういえば、昔カマキリを飼ったことがあった気がする。このカマキリと同じ、茶色い色をしていたっけ。何故この状況でこんなことを不意に思い出したのかなんて、私にはわかりっこない。

 全身から受けた激痛で、奴の鎌が私を絡め取ったことを認知した。ああ、死ぬんだ。ここでカマキリの餌にされて死ぬんだ。冷静に思考を組み立てるが、恐怖が体を侵食していく。
 どうせなら怖いあまりに、失神してしまえたら良かったのに。近づいてくるカマキリの顔を呆然と眺めながら、私はそっと目を閉じた。弱肉強食の世界が少しだけ理解できた気がした。



 何かが頬を掠めている。妙にくすぐったくて、けれど別段嫌だとも思えない。そよぐ風が心地いい。
 ゆっくりと目を開けた。辺りは鬱蒼と生い茂る木々や植物に囲まれていた。さっきから頬を撫でていたのは草だったらしい。視線をずらすと、池のようなものも伺える。
 ここはどこだろう。そう思った直後、両腕がじんじんと痛んでいることに気付いた。何とか起き上がり痛みの方に目線を落とすと、その付近の服が乱雑に破かれていて、そこから覗く色の悪い肌には切り傷が刻まれていた。
 瞬時に何もかもを思い出した。そうだ、私は確か、カマキリに捕まって――。

 ずしん、と辺りが揺らぐ。木の葉や草がかさりと音を立てる。視界の隅に映るは、先刻に私を確かに捕らえた、巨大なカマキリだった。
 カマキリの鎌には一匹のバッタが捕まっていた。カマキリと同じくらいの大きさの、まるまると太ったバッタだった。ただ一つ不思議なのは、そのバッタの脚という脚が食いちぎられてしまっていたことだ。
 バッタと言えば、立派な後ろ足とそれから繰り出されるジャンプ。後ろ足の蹴りで天敵に打ち勝つこともあると聞いたことがある。
 確実にありつくためにわざわざ脚を噛みきったのだろうか。だとしたらこのカマキリは、随分と頭が回ると予想できる。
 嫌な汗が吹き出る。喉が乾いて、声が出ない。

 奴は私の目の前に、バッタを乱暴に放した。地面に叩きつけられたバッタは鈍い音を立てる。バッタはまだ生きていた。その証拠に、触角が揺れていた。ということは、このバッタはついさっき捕まえてきたということになる。
 間近でバッタを見るのは精神に来る。後ろに下がって、苦し紛れに息を吐いた。
 カマキリは狼狽している私の様子をじっと眺めていたが、やがて首を傾げてその場に座り込んでしまう。首を傾げたいのは私の方だと言いたい。
 奴は一体何がしたいのだろう。バッタを食べるのかと思いきや地面に落として、今は私のことをじっと見つめているだけだ。
 食料を溜め込んでいるつもりなのかと思ったが、すぐにその考えは消え去る。カマキリは生き餌しか口にしなかったはず。
 なら、どうしてだろう。奴の行動が全くもって掴めない。がっくりとうなだれてカマキリを見た。カマキリは触角を動かしたり、時折鎌の手入れに勤しんでいたがこの場を離れる気はないようだった。

 そして太陽が沈み、夜が訪れた。空を仰ぐと、満点の星空が輝いている。荒んだ心を癒してくれるようだ。
 結局カマキリはバッタを咀嚼しなかった。私の目の届く範囲に、その死骸が横たわっている。同情の念が込み上げた。
 そのカマキリは、尚も私をじっと見据えている。夜でも目が利くようにと、奴の瞳は透き通った透明から黒曜石のような黒目に変貌していた。人間でいう、瞳孔が開く感じなのだろう。
 私はもう奴から逃げることを諦めていた。仮に逃げ出せたとしても、別の虫に襲われる可能性は決して低くない。それならここで最期を待つ方が、私にはましだった。
 まぶたが降りてくる。今日は本当にいろんな目に遭った。自殺しようと一歩外に飛び出したら、虫が突如あんなに巨大化しているし、あげく襲われて今こんなところにいるし。
 まどろむ心慮の中、私は夢の世界へと落ちていったのだった。どうかこれが全て白昼夢であったならと、ほんの少しだけ祈りを込めて。




2014/03/08
一日目。
一回データが飛びやがったので書き直しました。

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