二日目



 冷たいものがぽつぽつと降ってくる。それはつつつ、と頬を伝い地面へと流れていく。水か何かなのだろうか、そう思いゆっくりと眼を開けた。
 眼前に映ったのは、巨大なカマキリの鎌。そこから滴っているのは透明な液体。
 驚いて後ずさると、昨(さく)日(じつ)私を此処へと連れてきた張本人の茶色いカマキリが巨大な体をもたげていたのが視界に入った。
 動揺して体が一瞬だけ固まった。けれどすぐに緊張は取れる。カマキリはどういうことか、私に鎌を振りかざすような真似をしてこないようなのだ。

 それがわかったのは昨晩の真夜中。ぷつりと夢の世界に入ったのはほんの刹那的な体験で、耳を刺す何者かの羽音に私は夢から目覚めてしまう。
 まぶたを開けると、カマキリがバッタを捕らえている姿が目に飛び込んできた。カマキリは縦横無尽にバッタの首元にかぶりつき、もりもりとその肉を咀嚼しているようだった。
 傍らでは脚を噛み切られたバッタの死骸が横たわっていた。
 過激的な光景に吐き気が込み上がり、私は思わず口から胃酸を吐き出してしまう。情けない呻き声を吐きつつ、胃の中の物を地面にぶちまけた。
 その音にカマキリはぴっと触角を立て、黒豆のような二つの目で私の方をじっと見た。バッタを貪りながら、バッタを離すまいとしっかり鎌でくわえこんだ状態で確かに私の方を睨んだ。
 けれどそれっきりで、カマキリは何事もなかったかのごとくバッタを完食した。鎌を舐めながらじっと私を見つめていた奴は、私に何の手出しもしようとしなかった。

 喉が張り付くような違和感を訴えている。どうということはない、単純に喉が乾いているのだ。私はカマキリから目をそらし、ぐるりと辺りを一瞥する。
 と、湖を発見する。水草が生えているものの、湧き出している水そのものは透き通っていて綺麗だと認識できる。楕円を描くような形の湖に目を奪われ、おぼつかない足取りでそこへと向かった。
 カマキリからの視線を感じるが、奴に構っていられない。両手で水を掬う。ひんやりとしていて、すっと頭が冴え渡っていくようだった。それを口につけて、飲み込む。喉が嚥下した。
 何度かその行為を繰り返した後、私は後ろを振り返る。カマキリが立ち尽くしていた。いかにも重そうな鎌を携えて、私の方をぼんやりと眺めている。

 口内が潤い、ほんの少しの余裕がどこからかにじみ出てきた。私は立ち上がるとカマキリの方へと歩を進める。まだ恐怖心は完全に抜けきっていないが、奴に興味を抱き始めているのも事実だった。
 カマキリは身動き一つせず私を見下ろしていた。手を伸ばせば触れることができるほどの距離まで近付くと、私はカマキリを見上げる。本当に、とても奴は大きい。何故こんなに大きいのだろうと思わずにはいられなかった。
 まあ、それでいったら、どうして突如虫が巨大化してしまったのかという最大の謎にぶち当たってしまうのだが……。

 カマキリは視界から私が外れてしまったのか、数回首を動かしてキョロキョロ辺りを見回していた。その仕種に僅かにいじらしさを感じ、小さく吹き出した。
 それにより私がカマキリの真下にいることに気付き、奴は数歩後退する。見下げてくる奴の丸い瞳は相も変わらず不気味で全身の毛が逆立つような思いだが、こちらに何もしてこない可能性がある以上攻撃的な態度を取ろうとは思えなかった。

 喉が潤ったことにより、空腹感を思い出していた。気休めにお腹をさすってみるが、これでどうにかなる問題ではない。
 せめて木の実が成っている木が生えていたらいいのだが。そう思いカマキリから離れようと足を動かした。

 背高草へと飛び込もうとした瞬間、腹部に鈍い痛みが走った。
 すごい力で何かに引き寄せられる。この痛みを、私は知っていた。カマキリの鎌が食い込んでくる痛みだった。悲痛に顔を歪めてカマキリの頭を見上げるが、奴に表情などあるはずもなく。何も変わらない無感情な瞳がこちらをじっと見つめていた。
 カマキリは生い茂る草から遠ざかると私を下ろした。へにゃりと座り込む。そしてすぐさま痛んで仕方ない腹部へと目を向ける。切り傷ができていたが、血は出ていないようだ。
 何もしてこないと油断していたらこの様だ。私はうなだれる。一体全体奴は何をしたいのか。
 もしかしたら、私が弱るのを待っているのかもしれない。抵抗できなくなった途端あの鋭い一対の鎌で私を引っ捕らえて、首からむしゃむしゃと噛みついてくるのかもしれない。
 しかし、そんなまどろっこしいことをカマキリがしてくるとは思えない。そもそもカマキリは生きのいいものに食欲をそそられるだろう。……それは人間や他の動物も同じだけれど。

 そんなことで思案していると、カマキリはくるりと背を向けてどこかへと去っていってしまった。ぽつり、取り残される人間の私が一人。
 今なら好き勝手行動できる。が、他に巨大化した虫がそこかしこに潜んでいると考えると、行動しようという気が萎えていく。
 けれど空腹には勝てなかった。私は再びふらふらと立ち上がり、自身の首辺りにまで伸びている背高草を掻き分けて木の実が成っている樹木を求め歩き出した。


 少し進んだところで、赤い実の成る大木を発見する。こくりと喉から音が鳴った。
 自分で把握していた以上に飢えていたのだろう、私はその木を認識すると同時にぱっと駆け出した。熟れている木の実は重量感たっぷりのようで、その重さにより実をつけた枝は地面に向かって垂れ下がっている。
 果実を得るのに何の苦労もしなかった。長々と下を向いている枝から生える赤い実は手で捻ると楽に取ることができた。
 本能のままに、白い歯を見せてそれにかぶりつく。皮は薄いようで簡単にかじりつけた。果肉は柔らかく、ころんと口内に転がってきた。みずみずしい果汁は少し酸味を含んではいるものの、とても甘かった。美味しい。中心部にある黒い種を吐き出すと一気に頬張った。
 一つ食べると更に空腹が増してくる。手でもいで咀嚼し、種を吐いて残りを口に放り込む。何度となくその行為を繰り返した頃、私はある種の満足を覚えていた。
 空腹が満たされたのだ。口の端から垂れる果汁を乱暴に手の甲で拭うと、私はくるりと後ろを振り返る。虫に襲われる前にあのカマキリの住居へ帰らなければならないと思ったからだ。
 しかし後ろを向いた私の目に映ったのは、そのカマキリが真新しい獲物を捕まえて平然と立っている姿だった。

 カマキリの鎌からは丸々と太った何かの芋虫が顔を覗かせていた。体をひねって抵抗したようで、胴体のあちらこちらに切り傷が刻まれていた。そこから滴る青い液体は非常に青臭く、思わず鼻を覆ってしまうほどだ。
 一歩後ずさって、カマキリを見た。カマキリは口をもごつかせていたが、六本の細い脚を動かしてこちらへと歩み寄ってくる。
 つんとする青虫の臭いに顔をしかめると、私はもう一歩後ずさった。その間にもカマキリはじりじりと距離を詰めていく。
 そうして奴は私の目の前に芋虫をドンと置いた。

 眼前でかちりと星が弾けた。なんなんだ、こいつは。
 地面に落とされた芋虫は拘束から自由を得たようで、肥えた体を一生懸命にくねらせカマキリから逃れようとしている。私はそれを半ば放心した状態で見やった。
 カマキリは無慈悲にも、逃げ出そうとする芋虫の身に鎌を降り下ろす。褐色のそれが緑色の背中に突き刺さった瞬間を目の当たりにした。
 カマキリの二つの眼がじろりと私の姿を捉える。息ができなくなるほどに鋭い視線は、じわりじわりと私の精神を削いでいく。
 芋虫は最期まで必死に抵抗を続けていたが、やがてがっくりと地面に突っ伏した。息絶えたのだと見た目でわかってしまえた自分に自己嫌悪してしまう。
 生がふっと消える瞬間は、何となく察してしまう。その瞬間にぞわりと鳥肌が立ってしまうことも知っている。

 思考する余裕すらなくなった私は樹木にもたれ掛かり、ゆっくりと腰を下ろした。カマキリの瞳が追いかけてくる。

「なんなの……もう……」

 芋虫から発する青臭さと目の前の不可解な行動に脳がパンクしそうだった。
 ぐらり、世界が不安定に揺れる。目眩と共に込み上がるのは紛れもない嘔吐感。
 そう何回も吐きたいものではないが、生理現象には逆らえない。先程食した赤い木の実が消化されかけている状態で口からぼたりと放たれた。
 どろどろとしたそれは私の口から溢れていく。目から生温い涙が滴り落ちた。嘔吐物の異様な臭いに、吐き気が刺激される。

 胃の負担が減るほど吐いた後、私は落ち着きを取り戻して前を向いた。目先にはカマキリが私と私が出した嘔吐物、それから目線をずらし――先刻木の実を食べた際に吐き出した黒い種、を交互に見つめていた。
 そしてその直後、垂(しだ)れている枝の一つを鎌で掴みとると物凄い力で引っ張り始める。あんぐりと口を開けて見守ること数分、カマキリは枝を見事に引きちぎってみせた。
 奴は抱き抱えた枝を不思議そうに見つめると、どさりと私の前に落とす。糸のように細長い触角を揺らして、私の方を眺めていた。
 奴の鎌の尖端がすっと枝の方へと伸びる。それはぷつり、と赤い実を刺した。……ああ、これはもしかするともしかするのかもしれない。
 尖端に刺した実を奴は私の口元へと持ってきた。今までの謎は確信に変わる。

 昨日のバッタやさっきの芋虫は、私のために持ってきてくれていたのか。

 少しだけ顔を近付けてその果実に口をつける。邪魔な種を早々に吐き捨てると、鎌に刺さっている残りの果肉を口いっぱいに押し込んだ。
 どうして私にものを食べさせようとしているのかはわからない。もしかしたら本当に私を太らせて食べてしまうのかもしれない。
 しかしながら、しかしながら胸の中に広がっていくこの不思議な温かい感覚は、どうにも嫌になれなかった。





2014/05/10
二日目。

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