四日目



 あれはいつだっか、そうだ、小学生の頃に夏休みの宿題で自由研究の項目があったんだ。
 あの頃の私は別段虫を不快に思ってはおらず、男友達と共に虫取り網を構えては草原を駆け巡っていた。

 本当にどんなものでも捕まえた。春先によく見かけたモンシロチョウやモンキチョウはもちろん、いかにも気味の悪い気色悪い目玉の模様を羽に散りばめたジャノメチョウや、草と同化してぴょんぴょんと跳び跳ねるショウリョウバッタ等の昆虫達。昆虫以外では逃げ足の早いカナヘビやトカゲ、梅雨時に用水路でうじゃうじゃと沸いたダルマガエル……煮干しを使ってザリガニを釣ってみたり、給食の残りのパン屑をフナに投げ与えたりもした。

 そんな私も、歳を取るにつれそういった自然の住人と関わることが億劫になっていった。勉強や部活に追われ、親から怒鳴られる日々が続いた。
 無論それが悪い思い出なのかと聞かれるとそうではないのだが、昔と比べるとつまらない日常を送っている気がしてやまなかった。
 遠い昔の幼少に色付いていた思い出は、最早幻想のように、陽炎のようにその輪郭をぼかしていた。
 けれど自由研究の宿題に、観察日記をつけるためにカマキリを飼育したことだけは確かに記憶していた。茶色い小さな体を持った、コカマキリ。自宅の側をうろついていたがために私に捕獲されてしまった、哀れな虫けら。
 小さな虫籠に閉じ込めて、そこに千切ってきた雑草やバッタの幼虫を放り込んだ。図書館で読んだ虫図鑑には「カマキリも水を飲む」と書かれていたから、霧吹きで時折雑草に水滴を作ってやった。
 狭い牢獄のような場所で、そのコカマキリは悠々と暮らした。毎日新鮮な餌が与えられるのだから、野生で生きるよりも楽をしているこいつは少しずつ、しかし着実に太っていった。
 
 しかしながら、母は幼少の私とは違い虫を忌み嫌っていた。「学校の宿題だから」とカマキリを飼うことを許してくれたのだが、いつもカマキリがいる虫籠に目を向けては忌々しく口許を結んでいる。そんな母が苦手で、どこか怖かった。
 事件はある日起こった。私がうっかりして虫籠の蓋を閉め忘れたばっかりに、カマキリは室内に脱走してしまった。
 そんなカマキリを発見した母は絶叫し、箒で叩いてカマキリを排除しようとした。
 私は目の色を変えてカマキリを庇った。ばしん、と力強く背中に降り注いだ痛みは相当なもので、私はカマキリを下にわんわんと泣いた。
 管理をちゃんとしろ、と母に散々叱られてから、私はカマキリをその手に抱いて、まだ嗚咽を垂らしながら虫籠へと戻しにいった。

 どうしてこんなことを、今このタイミングで不意に思い出しているのだろう?
 ……わからないから、考えようがない。

 柔らかい日差しが、散漫した眠気を手繰り寄せる。私はぼやけた意識の中で、昔の夢を見ていたようだった。
 目を閉じたままではあるが、意識は夢から現実へと引きずり出されている。けれど日光があまりにも優しいから、それに甘えてもう一度深い眠りに落ちてしまいたかった。
 ふと、左腕が何者かに持ち上げられる感覚がした。けれど気だるい気持ちでいる私は、その主を確認しようとまぶたを開けることをしない。
 ただただ、夢と現実の狭間で緩やかな時間を過ごしたくて、どうにも目を開けようとは思えなかった。
 そうしているうちに、何やらヌメヌメした、ひんやりとした何かが私の腕を伝っていく。そこは、剃刀で何度も赤色の一本線を刻んだ、リストカットが数多にある場所だった。
 僅かながらにも、痛みは神経を通して私に送り届けられる。チクリチクリとしたうっとうしい疼痛が私を徐々に苦しめていく。
 流石にもう耐えられない。そう思い、私はゆっくりと瞳を開いた。
 大きな奴の眼が、堂々と私の視界に映り込む。

「ひっ!?」

 反射的に後ずさりした。目の前には、巨大なカマキリがいた。私を、得体の知れないこの森に連れてきた張本人である、あのカマキリだった。
 カマキリは私に覆い被さる形で腰を据えていたようで、私が後ずさると同時に重い雁首をもたげる。奴は赤黒い短い舌をチロチロと出しては、口をもごつかせていた。視線は私の左腕に注がれている。
 カマキリにつられて、私もそこを見る。左腕には無色透明の液体がベットリと付着していた。
 暫く思考が停止する。けれど先程の感覚と奴から与えられる視線が、事実を引っ張ってくる。

 カマキリは私の傷を舐めていた。

 さあ、と全身から血の気が引いていくのを感じた。細胞の一つ一つが危険信号を掻き鳴らしている。背筋が冷たいものを流れていく。嫌な汗が吹き出る。悪寒が止まらない。何よりも目の前にいる生体に、底知れぬ恐怖を抱かずにはいられない。
 どうしてそんなことをしたのかと、問い詰めることさえ出来たなら。けれど奴は虫で、私は人間。意志疎通など出来る訳がなかった。
 カマキリは感情のない瞳で私を見つめている。口許を動かして、相も変わらず舌を出したり引っ込めたりしながら、じっと私の様子を伺っている。
 それがなんだか獲物を品定めする捕食者のように見えてしまって、私は本能的に奴から背を向けて駆け出していた。


 頭の中がぐちゃぐちゃで正常に思考回路が働かない。それでも本能は絶やすことなく、生に縋ろうとする欲求を垂れ流した。
 息も絶え絶えになりながら、ただ走った。奴から逃れるために、闇雲に森の中を駆けるしかなかった。後ろは一度も振り返らなかった。
 そのおかげか否か、カマキリが私を追いかけてくる気配はなかった。

 私は小さく息を吐くと立ち止まる。随分と長く走り続けてすっかり疲れてしまったらしい。
 おずおずとした様子で背後に視線を投げ掛けてみるものの、辺り一面に緑が生い茂っていて何も確認することができなかった。
 喧しく鳴り響いている鼓動の音を煩わしく思いながら、私は震える指先で左腕をなぞる。仄かに粘性のある色のない液体が指の腹に触れた。
 きっとこれは、カマキリの唾液なのだろう。そうとしか考えられない。

 僅かに香る血の臭いにつられたのだろうか。でも、もしそうなら私を連れてきた初日から反応を寄越していても不思議ではないというのに。

 小さく唸りながら、私は考えた。動揺と困惑で脳みそを乱雑に掻き回されつつ、静かに思案した。けれど明確な答えなどが出てくるわけもなく、私の思考はぱったりと行き詰まってしまう。

「これからどうしよう、かなあ……」

 途方にくれながらも、ぽつりと呟いた。
 私は虚ろな眼のままに辺りを見渡してみる。見る限りに果てしなく広がる青々とした植物達は、霞んで見えない遠方にまで行き届いていた。
 何処へ行ったって巨大化した虫が蔓延っているのは、考えなくてもわかりきっていることだ。家に帰ろうものなら、道中肉食性の虫に捕まって終わるか、運よく帰れたところで家だったものが別のものへと変貌を遂げているに決まっている。それは例えば、シロアリに食らいつくされているだとか、もっと別の虫のテリトリーになっているだとか。可能性は山ほどある。
 希望というものは私から尻尾を巻いて逃げ出してしまったようで、どうしても私は前向きに物事を考えることができないでいた。

 どうせならこのまま遭難して死んでしまおうか、といった一つの考えが頭に浮かんでしまう。
 この森で何をするでもなく一日中呆けていれば、餓死できるのではないか。そう考えずにはいられない。
 けれどこの森で食料を見つけてしまっているから、餓死できる可能性はあまり高くない。空腹は募れば募るほど地獄のような苦しみへと変わるらしい。私がその苦痛に耐えられるのかと問われれば、首を横に振る他ない。
 結局私は意志の弱い人間なのだ。一人じゃあろくに決断できやしない、自分に何一つ自信が持てない弱っちい人間でしかないのだ。

 薄暗い感情が心内を覆い出した頃、眼前から黄緑色の小鳥がばっと飛び出した。反射的に後退した私は、そのまま体制を崩しぐらりとよろめいてしまう。
 そのまま私は重力に従うままに、多種類で形成された葉っぱの壁に背中からダイブした。
 次に感じたのは地面に叩きつけられるような鈍痛ではなく、何やらねとついたものが体にまとわりつく感覚。
 そのねとねとしたものは粘着力が強いせいか、上体を起こすどころか首を動かすことすら叶わない。
 一体何事かと混乱する。身動きが取れないこんな状況下で肉食性のものに見つかってしまったら、それこそ一貫の終わりだ。
 緊張の糸がピンと張り詰めた時、先程の黄緑色をした小鳥がこちらへと飛び込んできた。
 私に向かって右側に飛び込んだそいつは私同様、何物かに絡め取られて身体の自由を奪われてしまった。

 現状を把握するために、私は目だけを動かして周りを観察した。見れば見るほど、嫌な予感は確実なものへと姿を変えていく。
 白く光る糸は絹のようにキラキラと輝いていた。複雑に紡がれたそれは木の幹から伸びており、小鳥と私を捕らえて放さない。

 蜘蛛の巣が、一帯に張り巡らされていた。

 小鳥は危機を察知したらしく、逃げ出そうともがく。一対の翼を羽ばたかせて必死にこの場から逃れようとする。けれど小鳥が暴れれば暴れるほどに、蜘蛛の糸は繊密に絡まっていく。
 小鳥が抵抗する度に蜘蛛の巣は上下に揺れた。そこで私ははっとする。確か蜘蛛は、この振動で獲物を察知して近寄ってくるのではなかったか、と。

 予想は的中した。小鳥が何かに気づいた様子で、びくりと震えて硬直する。真っ正面を向いている私には、小鳥が何を見て動きを止めたのかがわからない。
 それでもぎしり、ぎしりと巣が小さく揺れるから、ついにこの家の主が顔を覗かせたのだろうと確証を得てしまった。
 数回揺れた後、視界の隅に鋭い棒のようなものが映り込む。黒と黄色の縞模様をしたそれは、私の真横で立ち止まる。
 ここまで接近されてしまえば、姿を拝む他ない。私は絶叫してしまいたくなる気持ちに必死に蓋を押し付けて、視線をスライドさせた。
 八つの瞳がギラギラと輝いている。どの瞳も一点を見つめているようで、目線は下に傾いていた。
 小鳥がぴぃ、と鳴いた。巣の主は目の前のご馳走を前に、口を何度もぐちゅぐちゅと噛み締めていた。
 蜘蛛はぐっと腹を突き出すと、瞬く間に小鳥を糸でくるくると巻いていく。小鳥は再三鳴いた。その声があまりにも悲しげで、私は思わず耳を塞ぎたくなる衝動に駆られた。けれど私の両腕は張り付けられたままで、拘束が取れることはない。
 糸で全身が覆われていくまでの間、小鳥は切なげに鳴いていた。けれどそれもいずれ完全に聞こえなくなる。私は唇を噛んでその現場に対面していた。
 隣には、バスケットボールほどの白い塊が一つ。息をして大空を飛び回っていたはずの命が、今はこうしてただの肉に成り下がっていた。


 八つの視線がこちらに振り注ぐ。次は私の番なのか、とどこか他人事のように思っていた。
 蜘蛛はゆっくり移動すると私の顔を覗き込んだ。元の大きさでもインパクトのある面をしているだけに、巨大化した今はかなり迫力があるように見える。
 ぐちゅぐちゅと口を噛み合わせる目の前の捕食者は、私を見てどんなことを考えて、何を思っているのだろう。呑気にもそう思った。
 腹が突き出されて、先端から白い糸が吐き出される。後ろ足を使って器用に糸を巻き付けてくる蜘蛛の芸当に、場違いにも感嘆の息を漏らしてしまった。
 半ば自暴自棄になっていた。だって、希望などどこにもありはしないのだ。カマキリに食われようが蜘蛛に食われようが、結果は同じじゃないか。

 そう思っていたのに、状況は急変する。巣が急に傾いたのだ。
 蜘蛛は当然行動を止めて、八個ある目をギョロギョロと動かして現状を把握しようとする。けれどそれよりも先に、巣は再びがくんと傾いた。
 私は何となく、幹に張り付いている糸が何者かによって切られているのだと思っていた。そうでもしないと巣が傾くことはないのだから。
 考えているうちに巣は地面へと降りていく。蜘蛛からしたら迷惑極まりないだろうに、糸を切っている者は容赦など一切せずに一本一本着実に断っていく。
 やがて巣は完全に地面へと降り立った。蜘蛛は狼狽した様子で辺りをうろついていたが、やがて諦めがついたらしく何処かへと消えていく。蜘蛛が強気でいられるのはちゃんとした巣の上のみのようだ。
 此処に残されたのは白い塊にされてしまった小鳥と、未だ身動きが取れない私だけだった。

 また、生き延びてしまった。

 眼前に射した影に反応して、目線は自ずとそちらの方へと移る。私は影の持ち主を確認するとため息を吐いたが、ふてぶてしい態度とは裏腹に、胸の辺りを冷水が絶えず流れていく感覚を感じていた。

 無感情な二つの瞳。逆三角の顔。長い首と細長い胴体。そして、大きな一対の鎌。

「なんだ……。追いかけて、来るんだね」

 自嘲気味に零れた言葉が、それだった。
 カマキリは触角を動かしていたが、私の言葉には何も反応しなかった。ゆっくりとこちらへ歩み寄ると、長い首をもたげて自身の鎌をぺろりと舐める。
 食べられてしまうのなら、存外痛くなさそうな蜘蛛の方が良かったかもしれない。そんなことを思いながらカマキリのことを見上げていた。
 カマキリの頭が私に近付いていく。口先がとん、と喉仏に当たった。生唾を飲み込んで息を殺す。きっと次には喉元を噛み千切られて、想像を絶する激痛に悶え狂うことになるのだと覚悟した。
 しかし奴は焦らしているのか、喉元を赤黒い舌で撫ぜているだけだ。上から下へ、上から下へと丁寧な動きで舐めあげられて、私はくすぐったさに見悶える。
 それからカマキリの口は私に巻き付いた蜘蛛の糸へとたどり着いた。そんなに近付いたら顔に付いてしまうのでは? と要らない心配をする私を他所に、奴は口を小さく開くとそれを食む。

「ち、ちょっと!? 何やってるの!?」

 カマキリが蜘蛛の糸を食べるだなんて話は今までに聞いたことがない。目を白黒させる私などお構いなしに、奴は静かに糸を咀嚼していく。
 おいおいマジか、そもそも消化できるのかそれは、と脳内でカマキリに語りかけて数分が経過した時、奴は私から顔を遠ざけると白い物体を吐き出した。
 よく見なくてもわかる。あれはきっと蜘蛛の糸だ。
 糸を吐いたカマキリは口をもごつかせると、再び私に絡んでいるそれの処理に取り掛かった。四、五回程繰り返された頃には、私はすっかり自由を得ていた。
 蜘蛛の巣を私から取り除いたカマキリは、体を左右に揺らしていた。
 奴は私のことをじっと見つめていたが、やがて思い立ったように大鎌を振るうと私の左腕をガッチリと掴む。鎌のトゲが刺さって痛い。
 小さく呻きながらカマキリを見ると、奴はリストカットのある場所へと顔を埋めた。冷たい舌先がそこを這う度に、痛覚が刺激される。
 けれど舌は、そこだけにとどまらなかった。奴はしつこくまとまりついている蜘蛛の糸の残骸を舐め取る。髪に絡んでいる部分も気になるようで、逆三角形の顔面がぐいぐいと頭部に押し付けられた。
 頭皮が軽く引っ張られることを体感して、カマキリはついに髪を舐め出したのだということを悟った。

「……毛繕いみたいだね」

 誰に届く訳でもない独り言が、空気上へと転がり落ちた。

 カマキリは私を全身舐め尽くすと満足したように顔を上げ、二本の触角をゆっくりと動かしている。その様子がどうにも人間臭く感じてしまうのは、どうしてなのだろうか。
 長くいると情が移ると言うが、本当にその通りなのかもしれない。
 カマキリは私をあの場所へ連れ戻しに来たようで、両方の鎌を胸元へと構えた。私をそれで捕まえて、自分のテリトリーに帰る気なのだろう。
 それを理解してしまっていたから、カマキリの鎌が伸びるよりも先に私は奴の左鎌を甲斐甲斐しく握った。すべすべしていて、温もりのない、いかにも虫らしい感触だった。

「帰ろっか」

 抱き抱えられて腹に痛い思いをするのなら、自分で歩いて帰った方がましだよ。
 そう呟いてからカマキリに話しかけると、奴は小さく頭を下げた。

 二本の足と六本の脚が並んで、緑の絨毯を踏み鳴らしていた。





2014/09/16

ALICE+