五日目



 指を噛む力がやけに優しいのは、奴が力加減を覚えたからだろうか。そのようなことを考えつつ、私は寝ぼけ眼のままくありとあくびを一つだけ漏らした。
 今日も今日とて嫌になるくらい空は快晴を保っている。己の存在を頭からつま先まで包み込んでくれるような安心感を持つ日光は心地いいくらいで、気だるさや暑さなんてものは一切感じさせやしないのだ。
 奴は私の右手人差し指を食みながら、曇り空を閉じ込めたガラス玉みたいな瞳をこちらに向ける。何かを訴えていることは理解できるものの、私と奴は種族と言葉、表現の壁があるのだ。あいそれと容易く内容を把握できるはずもない。

 私と奴が出会って、五日目になる。

 私なんかより何倍も大きい奴がその身をかがめて、私の柔い指に牙を立てている様はどうにも面白おかしく感じられる。どうして甘噛みを続けているのか、奴の意図を汲めずにいた私は懐に積まれた木の実を空いた方の左手で掴んだ。
 それをかじりつつ、気まぐれに奴を観察した。するとやはり分かってくることがある。単純に噛み付いているだけではなく、何処かに連れていこうとして緩く指を引いていることや、私の肌に傷をつけないよう、牙と指の間に短い舌を這わせていることなんかが次第に明白になってくる。
 それを脳裏でゆっくりと反芻した私は、木の実を飲み込むと仕方なさげに重い腰をあげるのだ。
 体の節々が、崩れかけている木の椅子を揺らしたような音を立てる。昨日蜘蛛に襲われた際に心身ともに疲弊した私は、完治とは程遠い状態だった。
 それなのに奴の目的に律儀に付き合おうとしている自分がいるのは、なんとなく、本当になんとなく奴から受けた恩を返そうという気になったからに違いないのである。
 立ち上がる私を今も見つめ続けているガラス玉は、瞬きなんぞしない。透明な楕円形の容器に一つだけ飾られた小さな黒豆みたいな複眼の一つから放たれる視線は、悲しいくらい感情を抱いていないものだ。

 奴は私から口を放すと同じように顔を上げ、触覚を左右に揺らした。木の枝に似た四本の脚はゆっくりと動き出す。
 歩み進んでいく先には、青空を映し出す湖の姿があった。
 奴はやがて一本目の前脚を水面につけ、それから私の様子を伺うかのように首をこちらにもたげる。まるで「こちらにおいで」と誘いの言葉をかけている風に見えた奴の仕草に、眠気すら吹き飛んでしまった。

「えーっと、よくわかんないんだけど」

 ぽつり、独り言をこぼして薄皮の切れた頬を指で掻く。

「まさかとは言わないけどさ……水浴びでもしようってわけ? 虫のあんたが?」

 カマキリが水浴びだなんて、それこそ聞いたことがない。それどころか、カマキリを水につけたらハリガネムシが出てくる――なんていう嫌な情報の方を思い出してしまった。
 思わず眉間にシワを寄せると、私は腕を組んで小さく唸る。奴と行動を共にすればするほど、カマキリとしての常識を覆されてしまっている気がしてならない。
 大体奴の誘いに乗って水浴びをすることになったとしても、あの湖は底がどれほどあるのかすらわからない以上迂闊に飛び込むのは避けるべきなのでは?
 ここまで考えて、私はふと己の手のひらを見た。もう何日も、お風呂どころかシャワーすら浴びていない泥と垢ですっかり汚れきってしまった己の手のひらをまじまじと見た。

「虫にしてはいい考えだと思う」

 咄嗟に顔を上げて奴に放った言葉が、それだった。
 刹那、一対の大鎌が私をすっかり絡め取る。あっ、と思った頃には後の祭り。大きく眼を開いた私が次に目にしたのは、立ち上がる水飛沫と反射する光が揺らめいている水中の世界だった。




「死ぬかと思った! ばか!」

 酸素を肺に取り入れることが出来たのはあれから一分前後。誘いに応じられたことがよほど嬉しかったのか否か、それとも待ちきれなかったのかどうか、生憎私に奴の気持ちなどわかるはずもないがとにかく、何らかの感情が昂り先程の行動を起こしてしまったのだと思われる。おかげで私は危うく命を落としかけた訳だ。誠に遺憾である。
 奴は私同様に全身水浸しになったまま、しゅんと頭を下げて罵倒と呼ぶには稚拙すぎる怒号を受けていた。

 落ち込んでいるように見えるのは、きっと気のせいじゃない。

 例えるなら善し悪しのわからない子供みたいな、そんな雰囲気がこの虫からは感じられる。まだまだ心と呼ぶには幼い小さな感情の種が、この生物には芽吹いてしまっている。
 直感的にそう思ったから、当然根拠はない。ひょっとしたら数日間傍にいたせいで、奴の行為を都合のいい風に受け止めてしまっている可能性だって否定出来ない。
 けれども、されども、そうであって欲しいとすら思い始めている私がいる。
 水分をたっぷり含んで重くなってしまったパジャマを絞りながら、べったりと顔に張り付いたままでいた長い前髪を耳にかけた。
 ずぶ濡れになった衣類はきっと、今からでも干せば日が暮れるまでに乾くだろう。
 今日は嫌味を言われている気分になるくらい、晴れ晴れとした一日になりそうだった。

「さて、仕切り直しだよ」

 奴の頭が上を向く。平常通りこいつの眼球からは少しだって感情を感じられはしないが、どこか遠いところでその節々が顔を覗かせていた。

「私は先に体を洗いたいから、ちょっと待っててくれないかな。えーっと……カマキリさん」

 ぱちり。まぶたのない彼が、瞬きをしたように見えた。

 本日は晴天時、くたびれるにはまだ早すぎる。首を傾げた彼めがけていたずらに水鉄砲を飛ばしてやれば、反射的に威嚇の構えを取られて一瞬呆気に取れ、それからすぐさま吹き出した。
 褐色の胴体に滴る水滴は、日の光に照らされてきらきらと輝いている。真珠を散りばめた格好にも見える彼は急いで羽をたたむと、勢いよく尻先を弾いてこちらに水をかけてきた。
 仕返しをされたと理解するよりも先に、顔面に大量の水が体当たりして来る方が幾分速かった。

「ち、ちょっと、ごめんって!」

 謝ると同時に向けられる水の束。「悪かったって。だからもうやめて、体洗わせてよ」という小さな悲鳴は水飛沫に飲まれて消えてしまった。
 彼はあまりにも遠慮と力加減を知らなさすぎるらしい。
 ひっきりなしに水をかけられながら、どうやってこの状況を打破しようかと私は一人思考した。いい加減やめてもらえないとまた息が出来なくなりそうだなあ、と他人行儀に思いながら。





2015/11/05
閑話休題。
執筆日は10月8日でした。

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