今でも彼女の声を聞くことがある。それはきっと、ただの幻聴だ。そうだとわかっているのに、おれはあの娘の言葉から耳を背けることができない。

「羨は私だけを見ていてくれるよね?」

 悋気に耐えかねて彼女の飼い猫を殺してしまった白い雪の降るあの日にあの娘が吐き出したその言葉は、おれを縛り付けるには十分すぎるほどで。
 血に濡れたかつての飼い猫だった肉の塊を甲斐甲斐しく抱き寄せながら、唾液で濡れた桃色の唇をぐにゃりと歪めて、ヤスリで綺麗に整えた爪先を丸めて、黒い艶やかな髪を靡かせて、あの娘はおれに再三こう言うのだ。

「羨は、私だけを見ていてくれるって約束してくれるよね?」

 タイガーアイみたいにキラキラと輝いている瞳は、真っ直ぐにおれを見つめていた。おれの返事を待っている彼女は、どんな心持ちでいたのだろう。
 おれが断り切れないことを知っているのにあんな束縛でしかないお願いを投げつけてくるあの娘は酷く策士で、残酷で、無情で、意地悪だ。
 でも好きだった。大好きだった。愛していた。あの娘のためならば、どんなことだってやり遂げられるくらいには。
 だからおれは、多少戸惑いはしたものの彼女の問いに肯定を示した。その時のあの娘は幼子のように頬を緩ませ、嬉しげに笑い声をあげていたことを記憶している。

「なら、私を殺して。そうしたら羨は、嫌でも私のことを一番に考えてくれるはずだから」

 その顔のまま受け入れ難い望みを突きつけてきた彼女は、本当に卑しい人間だった。



 ぱちりと目が覚めた。耳に届くのは機械的にリズムを刻む目覚し時計の秒針が進む音。夢から現実に引き戻されたおれはやりきれない思いを胸に、ゆっくりと体を起こす。

(おれ、間違ってたのかな)

 あの時のことは今でも夢に見る。それは彼女をこの手で葬ったことを後悔しているからなのか、ただ単にもう一度会いたくて仕方が無いからなのかは、おれにはわからない。……わかりたくない。
 あの娘のことを思い返す度に胸の奥がひどく痛むのだ。

「羨」

 もうこの場にいやしない、いるはずのない彼女の声がおれの耳に響いていく。

「忘れたりしないで」

 忘れるものか。忘れられなくしたのはそっちの癖に、奇妙なことを口走るのはやめてよ。
 おれは傍らに置いたヘッドフォンに手を伸ばす。夢見が悪い際はこうして音楽に逃避するのが、おれなりの逃げだった。
 ランダム再生のボタンを押せば、機械が一人でに曲を流し始めてくれる。現代機器は便利で有能だと思った。
 こうして逃げ道を辿っても、おれの記憶はそれを許してくれないらしい。あの娘の胸を貫いた生々しい感触が、鼻につく鉄の臭いが、じわじわとおれの世界を侵食していくことを止められない。
軽快なテンポに意識を集中させようとおれは躍起になった。けれどそんなものは付け焼き刃に過ぎなくて、おれの視界にはかつての光景が確かにはっきりと映し出されてしまうのだ。

「大好きよ」

――おれも大好きだよ、そう言ってひと思いに振り上げた拳に握られていた出刃包丁の切っ先が赤く光っていることに、彼女は気づいていたのだろうか。

  今でも彼女の声を聞くことがある。それはきっと、ただの幻聴だ。そうだとわかっているのに、おれはあの娘の言葉から耳を背けることができない。
 私ならすべてを受け入れてあげられる、だなんて甘い誘惑に誘われたおれは、最初からこうなることを何処かで予期していたのかもしれない。




2015/02/28
一月、二月ソロお題「過去」より。毎度毎度滑り込みで申し訳ない……。


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