アンサー

 図書室の匂いが好きだった。否、匂いだけに限らない。切崎は、図書室そのものに深い敬意のような感情を抱いていた。
 暇さえあればそこに足を運んだ彼は、目に付いた書物を手に時間を潰す。何の理由も要りはしない。ただ、図書室という空間に浸っているだけで良かった。
 そこまで敬愛している図書室も、定期考査前は他の生徒の声でざわついて奇っ怪な賑やかさを醸し出す。切崎はそれがどうにも苦手で、その期間ばかりは図書室から足を遠ざけていた。

 けれど、切崎は定期考査前になった今、図書室に腰掛けて道徳の教科書を片手に小さく呻いていた。
 二年と数ヶ月が経った彼には、ある変化が訪れる。自らの手を引いてくれる者が現れたのだ。
 へらりと笑っては自身の愛称を口にしてくれる彼のことを考えると、迫り来る定期考査に無粋な真似が出来ない。
 何せ、彼に出会うまでは地獄に落ちる気でいたのだ。そのために切崎は二年生に昇格した今も、掃き溜めの十組に腰を据えている。
 だというのに、「まだ生きてみる価値はあるのかもしれない」と思わせる存在が現れてしまった。自分は地獄に落ちるだけで良いと思う反面、そのような態度を取り続けていては彼に至極申し訳が立たないとも思ってしまう。

「……どうしよう」

 歯痒いジレンマに切崎は戸惑いを隠せなかった。気を紛らわせようと教科書に視線を落とすも、相反した思いが体中を駆け巡ってしまうために目の前のことに集中出来やしない。
 こうしている間にも、時間は刻一刻と過ぎていくのに。焦りは焦りを生み、切崎はすっかり狼狽しきってしまった。

「ねえ」

 その時だった。銀色の頭髪を持った眼鏡をかけた女子に、正面から声をかけられる。はっとして顔を上げると、デリア・バルシュミーデが眉根を垂れてこちらの様子を伺っていた。

「具合、悪いんじゃないの? 無理は良くないわ」
「……いや、平気だよ。気にしないで」

 何故、二人が図書室の机で向かい合っているのか。答えはシンプルだ、単純に、偶然顔を見合わせただけなのである。
 顔見知り程度と言えど、赤の他人の前で勉強するよりはこちらの方が落ち着くといえよう。双方がそう結論づけたのだった。

 女子に気を使わせるとは、何とも情けのないことだ。そのような事を胸に抱いた切崎は、まるで苦虫を噛み潰したみたいな顔をしてため息を吐く。
 切崎の露骨な落ち込みようを見ていては、さしものデリアも少しは気が滅入ってしまう。彼女は眼鏡をかけ直すと、窓際へと視線を投げかけた。

「お悩みのようね」

 デリアは窓の方を見つめたまま、口を開く。

「こんなにざわついているのだから、多少嘆いたって周りには聞こえやしないと思うのだけれど」

 彼女が何の意図を持ってこう募るのかを、切崎は瞬時に理解した。恐らくは、彼女なりに話し相手になろうか、と誘ってくれているのだろう。
 けれど切崎は妙にプライドが張った男。簡単に口を割ろうとはしなかった。

「……何もないなら、それで構わないわ」

 数分経っても口を開こうとしない様子の切崎に諦観を持ったデリアは、静かにそう言い捨てた。
 すっかり時間を無駄にしてしまった、と自身の軽率な行動に内心あきれ果てる。目の前の男は扱いづらい上に関わると厄介事を持ってくるのだから、お節介を焼くべきではなかったと。
 デリアが勉強を再開しようと手にペンを握った時、切崎は物憂げな顔で、そして消え入りそうな声で静々と呟いた。

「どうすればいいのかわからない」

 デリアはノートに文字を書きかけ、そのまま動きを止めた。顔を動かさずに目だけで切崎の様子を覗き見る。彼は思い悩んだ表情のまま、己の頭を弱々しく掻いていた。
 一体何をどうすればいいのかわからないのかが非常に気になりはしたが、恐らくこのことを聞いてしまうのは野暮なのだろう。デリアは一息ついた。

「先のことを考えるよりも、今を見据える方が大切なんじゃないかしら」

 彼女は切崎にはっきりと告げると、視線をノートに落とす。もう彼に構っている暇はなかったのだ。
 切崎は切崎でこれ以上何も求めてこない様子で、微かに「そうか」と吐くとようやく片手にボールペンを握り締める。

 その後は、ただひたすらに教科書のページをめくる音、紙に文字を刻む音が耳に届いてくるだけだった。




 答案返却からしばらく経ったある日、デリアは切崎を見かけた。馴染みのある、時折金色に輝く茶髪を靡かせる友人と廊下を歩いていた。
 二人はデリアに会釈すると、何事もなかったかのように横を通り過ぎていく。
 その時にデリアは、切崎の学ランから映える「八」の数字を見て、微笑んだ。
 あの時の問いの答えが見つかったのなら何よりだ、と思いながら。



2015/02/09
一月お題「定期考査」より、デリア・バルシュミーデさんお借りしました。
とってもギリギリになりまして非常に申し訳ございません……。


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