▽ 月は死んだ



 首の骨が滑稽に折れる音がした。力無く地面に落ちた月神を見つめる彼の瞳は、血のようにギラギラと卑劣に輝いている。その色は、月神の赤目と少しだって変わらない、似通った眼だった。
 彼女が息絶えると同時に、世界から月が薄れていく。パンケーキみたいに大きくて丸いそいつが、黒板でチョークの文字を消すようにして輪郭を不確かなものに変えていく。
 一部始終を見ていた彼は尾てい骨からぶら下げている、それこそ狼がチョークの粉をまぶして誤魔化したみたいな白い悪魔の尻尾を左右に揺らしながら鼻歌混じりにあくびをした。

 もう一人の俺。俺があんたであんたが俺で。俺はもともとあんたの意思の一つで、それが今こうして不思議なことに一人の確かな存在へと変貌して。

 彼は月神である海月のことなど微量も恨んではいなかった。むしろその逆で、恋慕に近い感情すら抱いてしまったのである。
 遠い目で見るとナルシズム臭いこの事実を、当然海月は受け入れようとしなかった。だから彼女は彼を拒んだのだ。それがこの結果をもたらしてしまった。
 原因はもうひとつある。彼女のそばに図々しく座り込んでいたヤブ医者の悪魔。あの悪魔さえいなければ、海月は助かったかもしれない。すべては彼の匙加減だった。
 あと少ししたら、花屋の住人と悪魔の仲間達が彼を止めに来るだろう。そのことを既に知り得ていた彼は、白牙を見せて笑った。

 そう、すべては彼の匙加減だった。移住者と、堕落した血染めの天使がこの世界に移ろうまでは、彼の匙加減だったのだ。

 すっかり月は跡形もなく消えてしまった。ただただ、鉛玉の色を灯した雲と、墨汁を垂らした上に白い絵の具でドリッピングしたような白い星達が、凍えた様子で肩を寄せ合っている。
 彼はぶるりと身震いした。呼気は煙へと変わる。月が放つぬくもりはきちんと存在していたということを、身に沁みて理解できた瞬間だった。
 彼は事切れた彼女の頬に触れた。冷たい布切れに触れている気分になったが、それでも彼は幸せな心持ちであった。

 月は死んだ。もうじき俺も消えるだろう。




2015/09/11
お題は「月」、孕命堂でSSを。
下落の戯言。




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