▽ 始まってすらいなかったのに
「もう、いいかい」
耳元に響いた、聞いていて心地がいいほどのテノール。心地がいいはずなのに、この言葉を幾度も聞いていた少女は喉の奥で空気の掠れる音を鳴らしながら硬直した。思わず息を殺して、絶えず爆音で騒いでいる心臓に胸を当てると小さく震える。
「ま、まぁだだよ」
震える声色でそう返すと、先ほどとは打って変わってどこか遠い場所で「そうか」と呟いたのが聞こえた。
どうしてこうなってしまったのだろう。あれは、そうだ、放課後に友達から口づてに聞いた都市伝説を実行してしまったから、こんな目に遭っているのだ。
きっと誰だって、この都市伝説が本物だと思わないだろう。所詮子供が作り出した作り物に過ぎないとタカをくくるのは仕方のない事だとは思わないか。
――悪魔を喚び出す方法があるんだけど、興味ない?
ほんの好奇心だった。退屈な日常に飽き飽きしていたから、なんとなく刺激を求めて口車に乗ってしまった。
なのに今はどうだろう。羊のようにぐるりと円形に曲がった一対の角を頭部から生やした、見た目だけは人間に似ている高身長の悪魔と命を賭けた遊びに興じている。
この遊びに勝てば、あの悪魔が言うには「契約が成立する」らしい。願いを叶えてくれるらしい。
けれど負けたら、命はない。
「諦めたら、そこで終わり。わかったか?」
サングラス越しに見えた血のように赤い瞳は、猛禽類みたいに鋭い眼光を放っていたことを覚えている。
少女は恐怖に打ち震えながら歯をカチカチと鳴らしていた。恐怖心のあまり、全身が小刻みに震えてしまっている。真っ暗な世界に体を丸め込んでいた少女は、体勢的にも、精神的にも限界が来ていた。
「もう、いいかい」
このやりとりは、何度目になるだろう。耳に当たる生暖かい吐息の、なんと気色悪いことか。少女の目尻からは涙が流れ始めていた。
「まぁだ、だよ……」
一体いつまでこのやりとりが続くのだろう。そもそも終わりはあるのだろうか。早く終わらせなければ、気が触れてしまいそうだった。
「そうか、なら、終わりにしよう」
遠くでテノールが響いた。少しだけ落胆したような、がっかりしたような、そんな感情の色が灯されたテノールが確かに響いていた。
「っ、本当!?」
少女は喜びのあまりばっと飛び出した。柵からようやく解放される喜びに、頬が綻んでしまっている。
けれど狭い隠れ場所から飛び出たというのに、視界は俄然黒いままである。
「みぃつけた」
刹那、耳元で声がした。
「諦めたら、そこで終わり。お前の負け」
――契約は破棄、された。残念。
気持ちの良いテノールを最期に、少女の意識はコンセントの抜かれたテレビみたいにぷっつりと潰えてしまった。
後日、公園で二人の高校生が遺体で見つかった。一人は何かに隠れるかのように膝を抱えたまま事切れていた。もう一人は何かを考え込んでいるように、頭を掻き毟った状態で亡くなっていたという。
「連想ゲーム、やってみようぜ。勝ったらお前の望みはなんだって叶えてやる」
「かくれんぼ、やる。願い叶う」
「でも、諦めたらそこで終わり」
「諦めたら、そこで終わり」
茜色の空の下、鼻につくタバコの臭いと甘ったるい砂糖菓子の匂いが交差していた。
2015/09/13
お題は「かくれんぼ」、作品指定はなかったのでギーグスで書いてみた。
悪魔唯一の良心ルーベンフェルドの、悪魔らしいところが書けて満足。
「諦めたらそこで終わり」はギーグスという作品に共通するテーマなので、ちょくちょく出てくると思います。