▽ 人権
人権が与えられることになった。
虫は、人々の奴隷として使役されてきた歴史を持つ。見た目こそおぞましいモンスターそのものではあるが、彼らは基本的に所有者の意見に従う習性がある。その巨躯にそぐわない脆弱な精神を、我々は利用する他なかったのだ。
大きな眼、毒々しい色の繊毛、何本もある脚。容姿は虫によって様々ではあるものの、外見は不快感を得るにふさわしい造形美を持っていると言えよう。そう、虫は気味が悪くて、気色の悪い生き物に違いない。
そんな虫に、人権が与えられることになった。虫なのに人権とは笑わせてくれる。政府が耳を疑う発表をしたのも数か月前のことで、気が付けば明日に迫っている。明日、あの気持ち悪い怪物どもは人権を得、人の子のように自由を手に各々の人生を歩み始めるのだろう。
私も虫の奴隷を飼っていた。名前など与えていないので、虫としか呼んだことがない。見た目は蜘蛛に似ており、四対の脚と瞳を持ち、鋭い牙と爪で主人たる私の身を率先して守ってくれていた。
しかしながら、私は虫のことを好きになれなかった。そもそも奴隷たるこの虫に情をかける意味などないが、とにかく好意的になれる要素がみじんも存在しなかったのである。
呼べば口をにちゃにちゃ鳴らしながら返事をし、命令すると細かい体毛を振り撒きながら体を左右に揺らす。その癖の、なんと薄気味悪いことか!
あんまりにも不快であるから、暴力をふるう事すら多々あった。
虫は抵抗しない。所有者には逆らえない。それゆえ、自らがぼろ雑巾のようにくたびれてしまっても足元にすがる術しか知らないでいる。懇願ともとれる行為に胸が痛めばまだ幾分か救いが捧げられようにも、生憎同情すらする気になれない。
力強くその腹をけり上げると、虫は小さく「ギィ」と鳴いていた。
「もうすぐだよ」
私は壁に立てかけられたアンティーク調の時計を眺めながら、ぽつりと呟く。秒針が刻む一定のリズムは、まるで責め苦のように感じられた。もうすぐで虫は、……否、虫が、人権を得てしまう。
「もうすぐ、あんたも自由になれるよ」
虫は声を発することなく私のそばに寄った。埃っぽい床が軋んで、耳障りな音を立てる。最後に掃除をしたのは、いつだっけ。
「良かったね。うんざりしてたんでしょ? 私から受けるこの扱いに」
言いながら虫に刻んだ古傷を見遣ると、彼は大きな頭を傾げた。線路のように幾重にも刻まれたそれは、素肌よりも盛り上がってしまっている。指先で触れたらでこぼこするのだろうなと思うけれど、触る気には毛頭なれない。
「ねえ知ってる? 虫に酷いことしたら、捕まっちゃうんだってさ」
明日から施行される新しい法律だよ、と言って、諦め気味に目を細めた。虫は牙をカチカチ鳴らす。鉄同士をたたき合わせたような音はあまりにも不愉快で、本音を言うと煩わしい。
ああ、もう、まったく、うるさいなあ。
「ギイッ!」
反射的に足が出ていた。ボールみたいに宙を舞った彼は、数秒も経たぬうちに木製の壁に背を打ち付けている。鈍い音の後に、唸る声。
「ごめんごめん」
口先ばかりの謝罪だった。虫は無感情な八つの眼をこちらに向ける。ワインレッド色の丸い水晶が一斉に私を映す。悪寒が背筋を走り抜けるとともに、腹の底から虫に対する憎悪と嫌悪が込み上がる。
やめて、そんな目で私を見ないで。
虫は木の枝のような脚でよろよろと立ち上がり、一歩前進した。地面が叫ぶ。虫の声に似ていた。ぎしり、また一歩。彼はか細い脚を交互に動かして、私のもとへと歩み寄る。真下に近づいたワインレッド色は、相変わらず表情が読めなかった。
どうせ私の恨み言を秘めているに違いないのだ。
虫は大きな顔を私の脚にすり寄せる。たとえるならば、猫のように。猫が甘えるみたいに、毛むくじゃらの顔をいっぱいに動かして頬擦りしてみせる。全身の毛が逆立つおぞましさに、息をのむことすら忘れた。
「……なんなの、あんた」
気持ち悪い、と耐えずに吐き出した本音は、寂しい音を立てて床に転がり落ちた。虫は私を見上げる。
「今まで散々酷いことしてきた相手に、どうしてそこまで媚びを売る気になれるの?」
それが彼らに刻まれた哀れな習性からくる行動なのだとしても、理解に苦しむのだ。
「ギィ」
優しい声色に、一瞬呼吸が止まる。
「なんなの」
虫は瞬きをしない。表情筋がない。そもそも感情すら存在しないのかもしれない。人間の玩具になるために生まれてきたと言っても過言ではないこの生き物は、多くが謎に包まれている。誰も調べようとすらしない。する必要が、なかったから。
そもそも彼らのこの行為は、本当に習性たるものなのだろうか? もし、もしそうではなく、慈愛や同情から生まれた情けの行動なのだとしたら――?
「出て行って、此処から」
虫は首を横に振った。私は思わず歯を食いしばる。
「言う事聞きなさいよ。あんた虫でしょ、虫はご主人様のいうことに従ってたらいいのよ」
「ギィ」
目が吊り上がるのを感じていた。心臓がばくばくとせわしなく動いている。自覚できるほどに、動揺している自分がいた。私はひょっとして、気付いてはならない真理に目を向けてしまっているのではないか?
不意に、目の前の生命体が恐ろしくなった。
「いいから出ていきなさいよ!」
足首にかかる重圧。次いで、虫が軽快に吹っ飛んでいく。スローモーションのようにゆっくりと、彼が背を打つさまを眺めていた。見た目よりもずっと軽い。人の足で簡単に飛ばすことができる程度に、軽い命。
虫はふらふら立ち上がる。壁には、虫のものと思われる液体が付着していた。つんと鼻をつく臭いは、鉄に近しい。
――ボーン、ボーン――
虫が脚を動かすと同時に、壁にかかっている時計から音が鳴り響いた。驚いてそちらに目をやると、短針は確かに十二を意味する数字を指さしている。かわいた笑みがこぼれた。
目の前の、得体のしれぬ怪物に、人権が生まれ落ちた瞬間を見送ったのだ。
「……はは」
私はもう、だめだろう。政府の発表では、日付が変わり次第、虫を飼う人の家に役人が順次派遣されるのだと言っていた。虫を正式な住民として登録するためらしいが、詳しいことまでは聞いていないのでわからない。
友人は日が変わるまでに虫を外へ逃がすのだと言っていた。彼女は、ちゃんと逃がせたのだろうか。他人を心配したくなるほどに、現実を受け止めることができない。
虫は茫然と立ち尽くす私を前に、ゆっくりと歩を進めている。
「夜分遅くにすみません、市役所の者です」
背後からコンコン、と扉をノックする音が聞こえた。終わりが近づいている。来るのが早すぎやしないか、と毒づいたってすべては後の祭りなのだ。きっと私は刑務所送りにされるのだろう。
心臓の奥底に冷水が流れ込んでいくような、不快感を味わっている。
「すみません、市役所の者ですが」
返事ができない。否、できないのではなく、したくないだけだ。
「ギィ」
虫の声とともに、ドアノブが回される。
はっとして振り返った。視界に飛び込んできたのは、若い男が二人。一人は警官のような恰好をしており、もう一人はスーツ姿で、書類を抱きかかえている。眼前が揺れた。目眩だと気づいたのは、地に膝をついた後。
大丈夫ですか、と男の声が降ってくる。私はやんわりと左右に首を振った。言いたいことが伝わったのかは定かではないが、とにかく声を発する余裕すら持ち合わせていなかった。
「……失礼ですが、虫が傷だらけになっている理由を聞かせていただいてもよろしいですか?」
ボロボロの彼を一目見て不審に思ったのだろう、訝しげな声が私へと放たれる。びくりと肩が震えた。咄嗟に嘘をつけるほど、私は器用じゃあない。
脳内に数多の言い訳が浮かんでは消えた。暴れん坊で手が付けられない、周りの人からいじめられた、エトセトラエトセトラ。けれどその場しのぎの嘘など、すぐにばれてしまうに決まっていて。
「……、私は」
どんなに醜悪な存在であれ、手をかけていい理由にはならない。今この時瞬間を生きている尊い命という点では、私もこの虫も天秤にかけたところで同じ重量に相違ない。
罰が当たったのかもしれない。率直に愚直に、そう思った。
「グオォ!」
ごとり、時計が床に転がり落ちた。真実を告げよう、と決意をするよりも虫の行動が幾分か早かったらしい。彼を飼い始めてから一度だって聞いたことのない、雷が唸るかのような轟音が耳に突き刺さる。えっ、と戸惑いがちの喃語が漏れた。
「危ない!」
遅れて顔を上げると、牙を剥き出しにした虫の顔が、間近に、迫っていた。
虫から人権が剥奪された。あの日、人権が与えられたあの日、数多の虫は人に牙を向けたらしいのだ。その危険性を配慮した結果、以前の扱いを義務付けることになったらしい。
「私も噛まれそうになってさー」
友人は肩をすくめると、大きなため息をはいてパンケーキを口に運んだ。「すんでのところで役人が虫を撃ち殺してくれたから大事には至らなかったの」と語る彼女は、心底ほっとした心持ちでいる。
「そう、なんだ。私も実は、同じなんだよね」
「本当? やっぱだめだよね、虫に権利なんて与えちゃあ!」
そうだね、と返事をしてコーヒーに視線を落とした。
結果として、彼は私に牙を立てる前に地に伏せた。警官の機転で、鉛の銃弾が虫の腹を貫くこととなったのだ。
その後彼は一言も発さないまま、反撃もしないまま、鉄臭い体液をだくだく流し事切れてしまった。ワインレッドの水晶は依然として美しいまま、無感情に私を見つめていた。
(おかげで私は、逮捕されずに済んだわけだけど)
私だけが得をする結末。ハッピーエンドとして割り切りたいのに、何故か胸がもやついて仕方がない。
これで良かったのだろうか? 自問自答をしようにも、明確な答えが沸いて来ない。何かが、引っかかったままでいる。
やりきれない思いをどうにかしたくて、黒々としたコーヒーを一気にあおった。口内に広がる苦みに、眉根を寄せる。
(……あの日)
大あごを開けた虫の眼が優しく見えたのだということは、誰にも話せないままでいる。
2017/06/05
執筆日は2月8日でした。