看過する男

 ──どう足掻いたって善人の皮を剥がせないこの男の、醜い一面が見たい。

 お腹の底でとぐろをまいているのは、筆舌に尽くし難い汚い感情だ。そもそも僕のような 人間のなり損ない≠ェ彼と関わりを保てている事実こそ奇跡そのものなのだけれど、感謝すべき事柄なのだろうけれど、人に上手く化けられない僕はあまりにもひどい感情を、彼の知らない場所で育んでしまっている。

 大前提として、僕はこの男を愛している。これは真実だし、いたって真剣な愛情だ。確固たる自信を持って、胸すら張って誇れる純粋な愛なのだ。

 けれども、僕は思考する。生まれて初めて抱いた綺麗な感情を胸の内側で大切に育てながらも、考えずにはいられない。びっくりするほど真剣に、真摯に他者を思いやれる、この人間の黒い内側を何としてでも覗きたい。だなんて!
 どんな人間にだって欠点は存在する。醜悪な一部分はなくてはならないものなのだ。悪い顔がない人間は、最早人間ですらない。これは僕の持論であるが、あながち間違ってはいないと思わないか?

 心臓の音が先程から煩くってたまらない。どうしようもなく緊張してしまっている。目がぐるぐると回って、ふとした瞬間に卒倒しそうになる。荒くなりそうな息を自らふぅ、ふぅ、と吐いて戒めながら、僕は自分の両手で顔を覆っていた。
 隣には狼狽した様子のクラウスさんが、行き場のない両手を膝の上で組んでいる。突然僕が泣き出してしまったことを気にしているらしい。どうしてこの男は、こんなに、愚かしいくらい愛情深いのだろう。育ちがいいからなのか、それとも。
 僕が情緒不安定になるのは、何も今回が初めてではない。もとより僕はアダルトチルドレンだ。子供だった頃の傷が治らないまま大人になってしまった無様な人間だ。心の傷というものは、そう容易く失せてくれはしない。本人が心底消えてほしいと願っても、不意に記憶が呼び覚まされてしまう。
 脳裏を過ぎるたくさんの思い出。お前は出来損ないだ、お前は人間失格だ、お前はおろすべきだった、エトセトラエトセトラ。数多の怒声と共に流れ込んでくる映像の数々に、気が触れてしまいそうで。
 ああ、僕は要らない子で、出来損ないで、愛される資格のない子なんだな。そう思わせるには十分な仕打ちで。自分を愛してあげたくても、愛すべき箇所が見当たらなくて。
 声を上げて泣くとますます怒鳴られた経験があるから、静かにひっそりと泣く技術を会得した。だから今の僕は、僅かに漏れる嗚咽すらなんとか噛み殺そうとしながらしずしずと涙を流している。

 クラウスさんの腕が、僕を引っ張った。みっともなく泣いているばかりの僕は抵抗するはずもなく、勢いにまかせて彼に力いっぱいハグされる。ぼふりと飛び込んだクラウスさんの胸腹部は、やっぱりかたい。
 彼の匂いを取り込みたくて胸いっぱい吸い込もうとしたら、息が苦しくなって咳き込んでしまった。クラウスさんの厚い手のひらが僕の背中を優しく撫でる。まるで「大丈夫だ」だと言われているようで、僕はどんな顔をしたらいいのかわからなかった。
 ああ、ああ、ほら、ご覧よ。この人はこんなに暖かい。もちろん体温ではなく、心が暖かい。僕が欲しがっている言葉をすべて惜しげもなく寄越してくれる、神様みたいな人だ。
 別の意味で胸が苦しくなりそうだな、と、冷静な方の僕が困り顔になっている。
 そして再び冒頭の欲求が頭を出す。この男の駄目な姿を晒してしまいたい、と。

「なんで優しくするんだよ」

 可愛げのない声が、まごうごとなき己の喉から吐き出された。クラウスさんの表情を盗み見る勇気は、僕にはない。
 震える拳を彼の背中に伸ばして、そのまま渾身の力を使い爪を立ててみた。痛いのかな、痛くないのかな。痛いなら抵抗してほしいな、なんて。歪んだ気持ちが泉のように溢れてきた。

「僕のこと早く捨てなよ」

 興奮気味に早口でまくし立てると、上から降ってくるため息。いい加減呆れてくれたかな、捨ててくれるのかな、と期待なのか不安なのかすら分からないしっちゃかめっちゃかになった曖昧な感情が音を立てて流れてくる。

「それだけは、たとえお願いされても出来ないな」

 思わず、息が詰まる。

 ──どうして、どうして優しい声でそんなことを言うの?

 与えられ慣れていないアガペーみたいな愛を捧げられた僕は、何も言い返せないまま胸部に圧迫感を抱いた。

「もううんざりだって言えよ」
「何故?」
「ほんとうは思ってるくせに」
「とんでもない話だ」
「嘘ついたって見え見えなんだけど」
「私が君の前で嘯いたことがあったかね?」
「人間は裏切る生き物だろ」
「ふむ、忘れてしまったのだろうか? ならば何度でも誓おう。私は君を裏切らないと」

 ああ言えばこう言う。僕は君の無償の愛をどうにか否定したくて、言葉という名の暴力を投げつける。
 こんな聖人がなんで僕を愛してくれるんだろう。ますますわからなくなる。幸福が怖い、なんて普通の人間には理解出来ないだろうな。
 人は未知の領域を無条件に怖がるものだろう? 僕も同じさ。幸せが怖いんだ、きっと。だから今こうして、彼が隠していると信じたい醜い面を躍起になって引きずり出そうとしている。
 おとぎ話とか、恋愛漫画とかさ、ほんとくだらないよね。最後は幸せに暮らしました? そんな都合のいいハッピーエンド、あるわけないじゃん。あるのは裏切りと利害関係だけだろう。

「ふざけんなよ」

 抱えきれなくなった感情が爆発して、咄嗟に手が出た。背中に回っていた彼の手が、即座に僕の手を掴み取る。それからやんわりと繋ぎ直されて、お互いの指のつま先が手の甲に触れた。よりにもよってこの状況で恋人繋ぎするとか、笑わせにでも来ているのだろうか、この男は。

 僕からの攻撃を防いだ行為にも意味がある事は、当然存じている。
 殴り慣れていない人間が、何かを力強く殴った際に起こる悲劇。安直に言うと手首が捻挫したり、酷いと指の骨が折れたりする。それを配慮して止めてくれた彼は、毛先から足のつま先まで紳士で満たされているのだろう。
 クラウスさんだってただの人間なのに、美しいところばかり目立っていけない。

「僕、人間嫌いだぜ」
「知り得ているとも」
「いろんな人間に酷いことするかもな」
「ああ」
「お前の仲間にだって」
「うむ」
「何回だって傷付けてやるよ」
「それは困るな」
「たとえやめろって言っても聞かないし」
「骨が折れそうだ」
「お前のことだって痛め付けてやる」

 これは、終わりの見えないいたちごっこだ。僕からの罵倒に、彼が柔和なまま返事をする。緩やかに、醜い本音を受け止め続けていく。

「幾度も幾度もお前を殺してやる」

 ふと、空いた方の手が僕の頬を包んだ。そのまま上を向かされて、かちりとぶつかり合う僕の茶色と、クラウスさんの緑色。透き通った瞳には、慈愛すら浮かんでいるようで。

「ならば私は、その数倍君を愛し続けよう」

 放たれた言葉が理解出来なくて、先程までつらつらとセリフを吐き出していた口が一文字を結んでしまった。

「君が信じてくれるまで……いや、それでは足りないな。君がもし私に飽いてしまったとしても私は──私が、君を愛したいのだ」

 私が君を、離せないのだ。
 その言葉と共に落ちてきた甲斐甲斐しい口づけに、穢れたコールタールに似た感情が溶けて消えていく。

 こんなに純心な人間の黒い部分を引っ張り出すのは、僕には荷が重すぎたのかもしれない。
 絶え間なく降りかかる幸せに溺れてしまいそうで怖くてたまらないけれど、臆病な僕は行く末におびえながらも、クラウスさんの手を離すことが出来ないのだろう。



 彼女は知らない。依存しているのはクラウスの方だと。その感情の度合いは、彼女よりもクラウスの方が遥かに勝っているのだという事実を、彼女は知らない。
 スティーブンは諦観した様子で、カップの中のコーヒーを飲み干した。それは少しだけ、ほんの少しだけ、見て見ぬふりを続けている罪の味がした。
 彼の傍らには、クラウスの筆跡で書き綴られた報告書が机の上で佇んでいる。異界からの脱出方法と、それを再び封じるための儀法が記載されていた。

(クラウスはもう、あの娘を帰す気はないんだろう)

 報告書の片隅には、走り書きでこう記されている。

──Schliesslich fand!(やっと見つけた!)、と。





2016/08/19

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