それは、俺がこんな身体になる前の話。 そう、あれは確か、俺が二年に上がったばかりの頃だった。 * 「あー!あったわよ蘭!」 「えっ?あ、ほんとだ」 「なんだ、またオメーらと同じクラスかよ」 「新一君!いつからそこにいたのよ!」 「新一!おはよう」 「おう、ついさっきな」 春休みも終わり、新学期最初の登校日を迎えた帝丹高校、新入・在学生。 昇降口前に大きく張り出されたクラス名簿に、学生たちは気分を高揚させていた。 その中でも特段に和気藹々としている集団、――左から鈴木園子、毛利蘭、工藤新一は、前年度同様、同じクラスになったことに話の花を咲かせていた。 「つーかこれ、ほとんど顔ぶれ変わってねーじゃねーか」 「そうなのよ、見慣れた名前ばっかりで驚いたわ」 「でも、これならこれで緊張しなくて済むじゃない」 「オメーが人見知りするなんて初めて知ったな」 「新一っ!」 あれやこれやと見事な言葉のキャッチボールが決まる中。 「しかし見事に知ってる奴ばかりだ」と、新一は蘭と園子を片手間にクラス名簿へと視線を流す。 遠藤、笹田、杉原……これじゃ知らないやつを探した方が早いくらいだ、と思える名前の羅列に、新一は思わず舌を巻いた。 「もー行くわよ!蘭も、新一君も」 「あっ、園子待って」 「アンタらに付き合ってたら始業式遅れちゃうわよ」 「新一ー!行くよ」 「おう」 横から伸びてきた細腕に新一の手首が攫われる。 その衝撃で、名簿を上から順に見下ろしていた新一の視界が大きく揺れた。 「なんだ」と思うも、途中で中断されたそれに新一は特に何を思うでもなく…。 引かれるがままに悠々と歩きだせば、不意に掲示板を通り過ぎる際に捉えた一つの影に瞬きを落とした。 「……?」 「新一ー?」 ふわりと鼻を掠めた甘やかな香り。 知らず内に足を止めてしまった新一に、先を進んでいた蘭が声を掛ける。 然し、呼ばれた当の本人は蘭の声に振り返るでもなく、どこか他方を向いている。 蘭はその行動に首を傾げ、新一の視線の先を辿るが、そこにあるのは人気の薄まった掲示板があるだけ。 一体どうしてしまったのかと、もう一度声を上げた。 「新一ー?行くよー?」 「……、おーう」 「?」 ぼんやりと、けれど今度は確かに帰ってきた反応。 どこか腑に落ちないような、狐に化かされたかのような。 そんな表情を浮かべて、ようやくこちらに向かい始めた新一。 蘭は、そんな新一の様子に「どうしたの」と声を掛けるも、「あー」としか答えない新一に、さらに首をかしげることしかできなかった。 「ちょっとアンタたちいい加減にしなさいよ!」 「あ、園子ごめん」 「新一君もそんなにたらたら歩かないで!ほら早く!始業式遅れたら許さないからね!!」 「ほら、新一!早く行こ!」 「…おー」 「あーもう、早く!」 二人の先を行っていた園子が、肩を怒らせてズンズンと床を踏み鳴らす。 眉を吊り上げた園子の表情に、蘭は慌てて「おー…」と漏らす男の腕を引っ掴んだ。 そして、半ば引きずる形になってしまったのは目を瞑るということで、蘭は苦笑を漏らしながら二人とともに会場へと向かっていった。 「おーっす工藤、また同じクラスよろしくな」 「遠藤か、よろしくなー」 「何なのよアンタたち、暑苦しいわね」 学生曰く、ダラダラと長引いた始業式の後。 教室へと移動した新クラスメイトたちは、ようやくと言った体(てい)で今年度初の交流を果たしていた。 オリエンテーションも終え、次限が済めば帰宅となる休み時間の今。 再び集まっていた三人は、他と違わず見慣れた顔ぶれと言葉を交わしていた。 「俺も思ったわソレ!だって全く変わってねーんだもん」 「担任も相変わらずだしな」 「だよなー」 「アンタたちねぇ、飽きもせず…また」 「だってよー鈴木だってそう思わねーのかよ」 「そうは言っても、知らない子たちもいるでしょ」 朝から同じことを何度も何度も…。 確かにこのクラスの顔ぶれを見ればそう思うのは仕方のないことだ。 然し、今朝から何度聞いたかわからない台詞についに園子がため息を漏らすと、遠藤と呼ばれた生徒がぐるりと教室内を見渡した。 「たとえばー?」 「例えばって…、ほらそこの子とか?そいつとかあいつとか」 「…園子適当ね」 「蘭…そう言ってやるな」 遠藤の質問に釣られて辺りを見渡す、園子。 目に付く見知ったクラスメイト達の中から、見知らぬ生徒たちをポンポンと顎で指し示せば、その様子を見ていた蘭と新一がへらりと苦笑した。 そんな二人に園子は「なによ」と言いかけたが、徐に見遣った机に目を止めて、開いていた口をゆっくりと閉じた。 ぱちりと瞬きを落とし、園子が「ねぇ」とその席を指さしながら口を開く。 「そういえば、あそこの席も別のクラスだった子よね」 「え?あー、そうなの?つかさっきからずっといなくねぇ?」 「言われてみればそうだね、新一何か知ってる?」 「いや、知らねぇ」 空白の席に向けられる四つの眼。 誰も情報を持っていないことを確かめると、誰彼ともなくキョトリと視線を交差させた。 蘭が首を傾げ、園子が首を傾げ、しまいには新一までもが首を傾げる始末。 クラス名簿を見たとしても一瞬でクラスメイト全員を把握できるわけなどない。 けれど、今回の場合はあまりにも"知らない"クラスメイトが少なかったため、その人数くらいは把握できていた。 だから園子は、空白の席が自分たちの知らないクラスメイトのものだと判断できたのだ。 「新一君でも知らないのかー」 「まぁまぁ、園子。新一も何でも知ってるわけじゃないから」 「…悪かったな」 意外そうに、それはそれはとても意外そうに新一を見遣る園子。 「珍しい、新一君でも把握してないことがあるなんて」と漏らしてしまったのは、新一の常日頃の行いに対する驚きだろうか。 新一は園子の言葉に一瞬ムスッと表情を尖らせたが、つと割り込んできた第三者の声に湧き上がる感情を霧散させた。 「遠藤」と教室の外から掛かる声に、呼ばれた当人を含め蘭たちが顔を上げる。 「明日からの部活についてだが」 「おー今行く!」 フェンシング部次期主将と謳われる、遠藤と同じ部活仲間。 どこかのナルシストを差し置いて、学校一美形と称される男が教室扉から遠藤を呼んでいた。 園子の眼が瞬時に輝き、「王子様!」と両手を合わせる傍ら、蘭はなんだろうかと首を傾げている。 遠藤は新一たちに向かって「悪いな」と一言断りを入れると、なぜか窓の方に視線を逸らしていた新一に「おい」と声を掛けた。 「あ?」 「ほらよ、これやる」 「は?」 「じゃ、俺はこれでー」 「あ、遠藤!紹介しなさいよー」 「はは!鈴木にゃ無理だー」 「どういう意味よ?!」 「そ、園子っ」 新一の机上に腰かけていた遠藤が立ち上がり、去り際に新一に何か放り投げた。 咄嗟に片手でそれを受け取った新一。 刹那、掌にピリリとした痛みが走ったが、小さく漏れたうめき声は遠藤の笑い声と園子の怒り声に掻き消されていった。 「…」 ゆっくりと開いた掌。 その中にあったのは、シャープペンの替え芯だった。 …アイツ、俺のペンケースの中見てたのか。 新一は、シャープペンの芯が入ったケースに溜息をもらすと、「投げるならせめて蓋を閉めてからにしろ」と眉根を寄せた。 じんわりと、芯が刺さってしまった個所から赤いものが浮かび上がる。 新一は、その様子にもう一度だけ溜息をもらすと、未だにギャーギャー言ってる園子たちに顔を向けた。 「あ、新一血が出てるじゃない」 「あー…コレが刺さったんだよ」 「やだ、絆創膏あるから、ほら」 「これくらい平気だろ」 「駄目よ!って、ちょっと見せて」 「…っおい」 新一の視線に気づいた蘭が、驚いたように手を取る。 突然の行動に思わず肩を揺らしてしまった新一だが、取られた手を蘭にまじまじと見られ、されるがままになってしまった。 幼馴染と言えど、なんか無性に恥ずかしい…。 「これ芯が刺さったままじゃない」 「そうか?」 「そうかって…結構深く刺さってるみたいだし、保健室行ってピンセットか何かでちゃんと処置してもらった方がいいよ」 「面倒くせぇ」 「面倒くさいじゃないわよ!行ってきなさい」 「…わーったよ」 気恥ずかしさからか、自分の手を見つめる蘭から顔を逸らしていると、突如怒鳴られるようにして叱られた。 これくらいのことどうということはないと思ったが、どうやらその判断は覆されてしまったようだ。 新一は、「面倒くせぇな」と頭後ろを乱雑に掻き乱すと、念押しするように「行ってくるの!」と一喝してきた蘭に渋々了承の意を示した。 「わーったよ、行ってくりゃいいんだろ」 「もう、ちゃんと先生に言うのよ」 「…オメー俺を何歳だと思ってんだ」 「…え?」 「…なんでもねー」 キョトンとした表情で見上げてくる蘭に呆れた表情を返す新一。 蘭は蘭で何を言われたのか分かっていなかったようで、新一が教室から出ていく背中を見ながら、ようやく合点がいったように「あ」と声を上げた。 「蘭ったら〜天然もここまでくるとねぇ」 「え…違っ」 「旦那にこれ以上愛らしさ振りまいてどーすんのよ」 「園子っ!!」 「おほほー」と高笑いを上げる園子に、蘭が顔を真っ赤にして抗議する。 その会話は教室中に響き渡っていたが、幸か不幸か、すでに保健室へと向かった男には聞こえていなかった。 「失礼します」 「?あら、珍しい」 「こんにちは」 「どうしたの?工藤君」 「手にシャープペンの芯が刺さってしまって…」 「そうなの、それならここへ座って手を見せてくれる?」 「はい」 保健室へとたどり着いた新一。 滅多に出入りすることのない部屋に、若干の緊張感を覚えるが、新一は踏み入った瞬間に投げ掛けられた声にわずかな安堵感を覚えた。 保健医の先生に促された丸椅子へと腰かける。 眼前に屈み、己の手を診察し始めた保健医の背後には、保健室特有の真っ白なカーテンレースが引かれた簡易ベッドが並んでいた。 ひとつカーテンが閉まってる…誰か居るのか。 「深いわね、ピンセットで取らないとならないわ」と呟く保健医の声を聴きながら、新一はチラと捉えたカーテンに意識を向けた。 窓から入り込む風に白い波が揺られて、妙にその光景が目につく。 「さっきほかの先生にピンセット貸したままなのよ」 「え、あ…はい」 「取りに行ってくるから、この消毒液で軽く消毒をしておいてもらえる?」 「わかりました」 呆然と見ていた視界に保健医の姿が映り込む。 新一は、伝えられたことに遅ればせながら返事を返すと、手渡された脱脂綿を片手に「それじゃ悪いけど少し待っててね」と去っていく保健医を見送った。 「…」 ぽつんと残された保健室内で、仕方なしに消毒液をつける。 鈍い痛みが走り思わず眉間を寄せるが、じとりと脱脂綿へと広がった赤色を傷口から何度も離し、清潔な脱脂綿で再び消毒液を押し当てた。 そして、運悪く芯が突き刺さっている個所を思い切り押してしまったとき、想像以上の痛みが走り抜け、新一は「うっ…」と声を漏らしてしまった。 同時に、ぶわりと吹き込んできた風が、丁寧に積み上げられていた脱脂綿を幾枚か攫っていく。 「…、」 視界の中を舞う白い綿に視線が奪われる。 消毒液で濡れていたはずの傷口を風がさらりと撫ぜていって。 あまりの不可思議な心地に、新一は一瞬ここが保健室であるということを忘れてしまった。 手に持っていた消毒液がポトリと床に落ちる。 ひらひらと舞う脱脂綿がゆっくりと地面に着地を決めて、すべての景色が元通りに戻るころには、新一はぽかりと口を開けてしまっていた。 ふらりと立ち上がり、勝手に進み出した足のまま、わずかに開かれたカーテンへと近づいていく。 窓に掛けられた半透明のレースカーテンとは違い、不可視なレースカーテンの先。 それは、一つのベッドと、その中に眠る、どこか淡い存在を隠していた小さな空間だった。 「…、」 隙間から覗く、淡い、眩しい、空間。 そこは自分の呼吸音すら耳障りに聞こえるほど、どこか浮世離れしていて。 新一は、その空間を侵すように、至極ゆっくりとカーテンの隙間から手を差し込むと、その空間が今自分のいる場所と全く同じ場所であることを確かめようとした。 「…っ」 瞬間、気がついた己の行動。 新一は、ハッとしたように息を呑むと、急いで伸ばしていた手を引っ込めた。 俺は…何をしようとしてんだっ。 犯罪者じゃあるまいし、他人が寝ているところを勝手に覗くなんて。 己の行動の危うさに非を見止め、もう一度だけカーテンの中に目を走らせる。 しかし、再度走り抜けた罪悪感に慌てて辺りに散らばった脱脂綿を拾い始めると、新一は逸り始めた心臓の音に思考を困惑させていった。 「工藤君ごめんなさいねー、遅れちゃって…ってどうしたの?大丈夫?」 「あ、先生…はい、すみません。風で飛ばされてしまって…」 「そうだったの、あとはいいわ私がやるから。それよりピンセットあったから、これで芯を抜いてもう一度消毒して、それから傷薬塗りましょうね」 「はい、ありがとうございます」 「それじゃ、そこに座ってくれる」 「はい」 タイミングよく戻ってきた保健医に諭され、新一は少なからず跳ねてしまった心臓を落ち着ける。 丸椅子に再び座り、消毒を施したピンセットで芯が抜かれるのをじっと待つ。 深く刺さってはいたものの、案外するりと抜けたシャープペンの芯は赤とも黒とも言い難い色で受け皿の上に載せられた。 「これでよしっと」 「ありがとうございます」 「いいのよ、これから気をつけてね」 「はい」 手際よく抜糸と消毒を施された手のひら。 さすが慣れているのか、保健医はさして時間もかからずに新一の手の処置を終えた。 とは言ったものの、ここに来てからは随分と時間が経ってしまっている。 チャイムは鳴っていないが、おそらく始まってしまっているであろう授業を思うと頭が痛い。 蘭たちが担任に事情を話してくれているはずだから、特に問題はないはずだが、担任が担任だからな。 新一は、内心「はは」と口角を引き攣らせると、保健室利用者カードを手渡してくる保健医に作り笑いを浮かべた。 「それでは、これで失礼します」 「ええ、気を付けてね」 「はい、失礼しました」 記入し終えたカードを手渡し、どこか重くなってしまった足を扉へと向ける。 そして、扉前で一度軽く頭を下げると、どうしようもなく惹かれてしまう視線を、未だ隙間の開いているカーテン先へと移した。 「…」 ふわりと鼻を掠める甘やかな香り。 それはどこか新一の心を騒がせて。 ドクリと弾む鼓動にさらなる拍車をかけた。 「工藤君?」 「あ、いえ、失礼しました」 呆然と、ただ茫然と。 今この時を惜しむかのように、新一は、保健医の声に意識を取り戻し、後ろ髪を引かれる思いで保健室を後にしていった。 「……なんだ、これ」 絆創膏の張り付いた掌が触れるのは、己の胸。 とくとくと逸る心臓は、まるで自分のもののようには思えなくて。 新一は、先ほどの光景を振り払うように瞼をぎゅっと瞑ると、三階にある教室まで急いで駆けていった。 * これが、俺の、最初で最後の、一方的な出会いだった。 追憶