部活も終わり、部室での休憩にも満足をしたから、そろそろ家に帰ろうかと昇降口に足を向けていた時だった。 「春瀬さん」 不意に背後から掛けられた声に足を止めてしまう。 いつも誰よりも遅くに帰るから、この時間に声を掛けられるなんて初めてだ。 夕方から夜に変わり始めている曖昧な明るさの時間帯は、大抵の生徒が帰宅を終え、教師たちも職員室へと篭ってしまっている。 だから、自分以外の誰かが自分と同じ場所にいるなんて思いもしなかった。 「春瀬さん…で合ってるよね」 「…」 確かめるように、様子を窺うように、そっと静かに落とされた言葉。 私は、初めて聞く声の主にそっと振り返ると、初めて見る男子生徒の姿に「誰だろう」と瞼を瞬かせた。 「よかった…、」 「…」 顔も知らないその人に、向き合った瞬間。 どこか安心したように笑った人。 彼は頬を2回だけ掻くと、こちらへ一歩、近づいた。 「あの、さ…」 「…」 「いま、帰り?」 「…はい」 僅かに首をもたげて、私のすぐ横にある壁に視線を投げる。 名前も分からないその人は、少しだけ肩を上下させると、深呼吸をしたのか、最後にゆっくりと肩を下ろしていた。 「…そっか」 「…」 沈む前の西陽が彼の背後から射し込んできて、正直、眩しい。 私はほんの少し、顔の正面を相手から背けると、「とりあえず呼び止められたのだから」と相手が用件を言い終えるまでじっとその場に佇んだ。 けれど、いくら待っても夕日の中の彼は何も言葉を口にしない。 帰りかどうかを訊ねて以来、しんと静寂を落としてしまっていた。 「…」 困る。 どうすればいいのか、本当にわからない。 私自身、もともと人付き合いが上手な方でもないし、こういう時はどうすればいいのかなんてさっぱりわからない。 「あの…、」 「え…」 「私は、これで…」 だから、たった一言「失礼します」と。 これ以上用もないのであれば、早く家に帰りたい私は、驚いたように顔を上げた彼に向かって静かに背を向けた。 「…っ」 「って…!!」 そして、そのまま下駄箱に向かって歩き始めれば、上履きとリノリウムの廊下の擦れる音が耳に届くのだと。 そう思っていたとき。 「ぺちっ」と聞き落としてしまうほどの小さな音を立てて、唐突に何かが右腕に触れた。 思わぬ衝撃に肩を震わせ、再びその場に立ち止まってしまう。 自分の身体よりも後ろに引かれている右手。 私は、それを捕らえて放さない存在におずおずと目を向けた。 「あの…」 「何か用でしょうか」、そう言葉を続けようとしたのだけれど。 意図してなのか、そうでないのか。 私の言葉よりも僅かに先に、彼の声が背後から響いてきた。 「っ、好き…なんだ」 グッと握りしめられた右手首。 力加減がされていたはずなのに、言葉が降りてくると同時に、遠慮を忘れたように力が加えられる。 勝手に動いてしまった指先が、妙に浮世離れしたものに感じられた。 この人は、いま、なんと言っただろうか。 小さく、けれど絞り出すように吐き出された言葉は、幸か不幸か、静かすぎるこの場所では、耳に届かないはずがなかった。 「…」 右手首が、あつい。 私は掴まれている手をそのままに、首だけを背後に向ける。 すると、目に入るのは、自分の視線よりも十数センチ上に位置する、朱色を差した人の顔。 女性であれば、俯いて恥ずかしさを隠すことができるのだろうけど、いまここにいるのは自分よりも背の高い男性だ。 彼は熱をもった頬を隠すこともせず、ただただ、じっとこちらを見つめていた。 「…っ、」 「…?」 視界に見えている、形の良い唇が震える。 緊張しているのか、カサついた唇が何度も小さな隙間を開けたり閉じたりしていた。 まだ、何か言いたいことでもあるのか。 再び彼が何かを言うのを待ってみるけれど、やっぱりなんの言葉も乗せられることはなくて。 私は、未だに強い力で握られている右手首に視線を落とすと、目の前の人の様子を伺いながらも、はっきりと手首の解放をお願いした。 「あ…、ごめん」 「いえ…」 急いで放された腕に、一気に血が通う。 締められてはいないけれど、それでも随分と力が入っていたみたい。 冷たい何かが流れ込んでくるような、スッとした感覚が指先まで走っていくのを感じた。 「その…、さっき言ったこと」 困ったように、どこかぎこちない風に、眉尻を下げるその人。 そういえば、先ほどから汗とグラウンド特有の土臭さが微かに香っているが、屋外運動部の人なのだろうか。 手首を掴んでいたことに対する謝罪から、少しは緊張がほぐれたらしい彼の話を、「そういえばこの人は誰だろう」と言う疑問を交えながら聞いていると、私は、唐突に、本当に唐突に、ふと辿り着いたひとつの答えに眼を瞬かせてしまった。 今更ながらに、「そうか、これが告白か」と。 「春瀬、さん?」 「あ…、いえ」 「…え」 伝えられたことはしっかりと理解していた。 生まれてからずっと使ってきていた言語なのだから。 でも、その意味するところまでを十分に理解することができていなかったのだ。 私は、顔だけしか向けていなかった身体を、改めて男子生徒の方へ向けると、今度は明確な意思をもって彼人の瞳を見つめた。 「すみません、」 「…」 「失礼します」 「え…、ちょっ、」 そして、誠心誠意の言葉と態度で、先ほどと同じ言葉を告げると、私は「これで終わり」とばかりに踵を返した。 背後から戸惑ったような声が聞こえるが、そんなものは関係ない。 キュッキュッと、ようやく鳴り始めたリノリウムと上履きの擦れる音に安心感が走り抜ける。 私は「これで、やっと帰れる」と一息吐くと、この後に寄らなくてはいけないスーパーの野菜コーナーを思い描いたのだった。 部活終わりの放課後と、ほんの少しの汗のにおい。 鼻についてしまったそれを振り払うように、私は、昇降口を駆けて行った。 だから、西陽の消えたあの廊下で、 名前も知らないあの人が、一人俯いていたことなんて まったく知らなかった。