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魔法使いが引き摺る悔悟

「真緒、私ね」
こそこそ話をする体で、耳打ちしてきた声を鮮明に覚えている。

「凛月のことがすきなの」
そう言って恥ずかしそうに笑ったあの子は、朝露に濡れた花が楚々として開くように可憐だった。


「……へえ」
「え、反応それだけ? 薄っ、コンソメポテトより薄っ!」
「あー、分かった分かった。それで? りっちゃんに告白するのか?」

ギャンギャンと喚き立てる声に眉を顰め、仕方なく俺は読んでいた漫画本を閉じる。ベッドに半身乗っかるようにこちらを覗き込んでいた名前は、俺の問いにたちまち茹だるように顔を真っ赤にした。

「そこまでは……考えてなかった……」

言葉尻が近づくにつれ萎んでいく語調に、いささか自信のなさが表れているように見受けられる。仕舞いには名前は前のめりになっていた姿勢を崩して、ストン、とフローリングに尻餅をついてしまった。さっきまでの勢いはどこにいったんだよ、と呆れつつも、俺はやむなく身体を起こす。
「ほら、」
床に座り込んでいる名前に手を差し伸べると、名前は半べそをかきながら俺の手を掴んだ。いや、すがりついたと言ったほうが正しいかもしれない。そのままヨイショと後ろ向きに重心をかけて引っ張り上げれば、名前は立ち上がるときのバネのような力を利用してベッドの上に着地した。
仮にも異性の部屋にいるという自覚は持ってほしいところだが、小さい頃から付き合いのあるコイツとは『今更』と一笑する関係でもある。故に俺も相手もベッドの上という状況はまったく意に介さず、引き続き話を続行した。

「凛月は……うーん。あいつ、そもそも恋とか愛とか浮いた話に興味があるのかぁ……?」
「問題はそこなんだよ〜……だいたい凛月が誰かを好きになるとか、まったく想像ができなくてだねワトソン君!」
「誰がワトソンだよ! ……いや、さすがにからっきし興味がない訳ではないんじゃないか……? 凛月も年頃だし……」

「…多分」あとから言い添えた一言に、食い気味で傾聴していた名前はがっくりと深く項垂れた。思わず俺の口からも乾いた笑いが滑り落ちる。
一に昼寝、二に吸血のあいつのことだ。大方「そんなのど〜でもいいし何より面倒くさ〜い」とあっさり一蹴するであろうということは分かり切っている。現にベッドの上で大の字になってそう口にしている光景が目に浮かぶようだ。
……悲しきかな、今のままでは予感は現実になるだろうと間もなく悟った俺たちは、ふたり揃って憂鬱な嘆息をこぼした。

先が思いやられるのだろう、顔を上げた名前はしょんぼりとした面持ちで唇を結ぶ。言うまでもなく落胆している模様だ。落ち込んだ彼女に激励の言葉を掛けてやりたいのは山々だが、凛月というヤツの性質を理解している以上、迂闊なことを口走ることはできない。
第一、理解してるのは俺だけじゃないのだ。名前本人だって嫌というほど知ってるだろう。甘えられ、甘やかされ、機嫌が悪いときには身勝手に突き放されたりもしていた。ぶっちゃけ凛月の奔放さに一番振り回されてるのは名前のほうだから、好いところも悪いところも全部身を以て彼女は体感してるだろう。それでも凛月のことを好きだと断言するのだから、変わり種だなぁと感心すら覚えるけど。
だけど悪いところもひっくるめて好きだと言ってくれる人がいるのは素直に羨ましいもんだと、このときの俺は心密かに凛月に対して羨望の念を抱いていた。
ま、そんなの知る由もない名前は赤べこのように首を揺らしてひとりでうんうん唸っていたが。

「とどのつまり私は異性として意識してもらえるステージにすら到達してないってことでしょう…? だって凛月にその気はないんだから」
「それは、まぁ……凛月が恋愛に関心がないことを前提に話すなら、そうだな」
「そんな状態で告白するなんて玉砕覚悟で勝負に挑むようなものじゃない……フラれたら今まで通りに過ごすことも難しいだろうし、賭けが大きすぎるよ……」
「凛月は気にしないと思うけどな?」

素朴な俺の差し出口に、私が気にするの、と名前は口疾に難色を示した。そうか、女子はそんなものなのかと若干気圧されながら、自分の主張を喉奥に押し込む。
言われてみれば事があった翌日以降、非常に気まずい思いを味わうかもしれない。
凛月は平然として絡みに行くだろうが、意外とセンシティブなところもある名前は内心めちゃくちゃ複雑だろうし。漫画でもフラれたら今まで通りに話せなくなるっていう展開はまあまあ見るから、そのへんの事情は現実でも有り得る話なのかもと納得はできるんだが。
でも名前の場合、まだ失恋すると決まったわけではない。なのに自分で結論を出して悲嘆に暮れるのはあまりに早計過ぎないかと、俺は名前の内意がいまいち腑に落ちなかった。
思い切って「なんでそんなに自信がないんだ?」と直接問いかけてみると、名前は核心を突いたド直球の質問に苦笑して視線を下ろした。
彼女の奇麗な唇が遠慮がちに、最初に発音する言の形を縁取っていく。

「……凛月は、私のことを妹のようにしか見ていないと思うから」

ぽつん、と呟かれた声に、俺はようやく合点がいった。同時に、言わせてしまったことをとても申し訳なく思う。ヒリヒリとした罪悪感が、俺の胸の内側を人知れず焦がし始めた。
名前は、世界中の女の子の中で最も凛月に近い立場にいるけれど、最も『恋愛対象』からは遠い立場でもあった。
時には頭を撫でられ、時にはマスコットのように抱きしめられ、時には寄り添って眠り、時には頬に口づけをされる。
一見恋人のような戯れを行っているのに、しかし凛月にとってそれらは"妹"を可愛がる行為と同義であって、決して下心など存在しない。あるとしたならそれは聖母のような慈愛の心であって、恋心とは偉くかけ離れたものだ。

きっと、否、確実に名前は感じ取っている。自分を"そういう対象"として意識していないからこそ、凛月は無邪気に触れてくるのだと。
(おまえはなんて惨いことをしちゃってるんだよ……凛月)
例え凛月が名前の懸想に気づいていようが気づいていまいが関係ない。そんなことをされたら誰だって期待してしまうだろうと、どうしようもないもどかしさと苛立ちに己の髪を掻き毟った。
挙げ句その期待を殺しているのがほかでもない凛月本人だとは笑えない。フラグを立てた張本人が次の瞬間には粉砕するなんて、これを「惨い」と言わずして何とするのか。

「いや、ほんと、なんで名前は凛月のこと好きになったんだ…? おまえならもっと幸せにしてくれそうなヤツほかに見つけられるだろ?」
「恋に落ちるのに理由なんて必要なのかねモリスン君」
「誰だよモリスン。ああ、もう、さっきからちょいちょい調子狂うなあ…?」

言ってることはもっともなぶん、混ぜっ返す口調で語られるとため息しか出てこない。
いつもの俺なら、このあたりで話し疲れて匙を投げるんだけど。

はつらつとした明るさの中に隠している、洞なさみしさ。今の名前の表情に滲んでいる感情を明確にするなら、まさしくそれだ。同い年であるはずの彼女は俺なんかよりも段違いに大人っぽく、されど寂とした雰囲気を幽かに漂わせていて、放っておくことなんてできなかった。
……俺はまだ本気の恋をしたことがないから、分からない。なんで好きな人のことを話すときそんな苦しそうな顔をするのか、とか。なんで冷たくあしらわれたり嫌なとこを見せられてもなお『好き』だと言えるのか、とか。まったく以て理解不能だ。凛月は確かに悪いヤツじゃないし、存外気が利くとこもあるから好きになる気持ちは全然分からないという訳ではないけども、普通だったら嫌気が差すのではないか。
とにかく俺の頭の中で『なんで』という疑問は尽きなかった。
すると察したらしい名前は困ったように微苦笑した。その笑顔は正しい答えを探す子供を見つめるかのような眼差しだった。

「……本当は自分でも分かってるんだ。不毛な恋をしたなって。決してハッピーエンドは迎えられないって分かっているのに、それでも凛月に女の子として見てほしいなんて強欲な気持ちを抱いてしまった。もっともっと触れてほしいなんて邪な気持ちを抱いてしまった。――その時点で、凛月が私に重ねて見ていた理想の妹は息絶えてしまったの」
「名前……」
「お人形も同然だった妹の抜殻から、たったひとつ新しく芽吹いた魂は、"お兄ちゃん"への恋心。……なんて、ちょっとポエムが過ぎるかな」
「……凛月はお前の兄ちゃんじゃないだろ?」
「うん。だからこそ、厄介なんだ」

本物の兄妹であったなら、彼に恋をすることもなかったのに。
疲弊と無力感を同居させたような面差しの名前に、俺は奇妙な寒気が止まらなかった。何でいきなり身体が小刻みに震えだしたのかは判然としていない。けど今思えば、それは『虫の知らせ』というヤツだったのかもしれない、と思案して記憶の糸をたぐる。
そのとき俺はなんて言ってたっけ。海馬が衰えてなければ、そう。

「…それでも、りっちゃんとおまえなら大丈夫だよ。時間はある程度必要かもしれないけど、ふたりならまた元通りに戻るって!」

と、無闇に明るく振る舞って、安易に名前のことを元気づけたような気になっていた。
率直に言えば慢心していたのだ。名前の心にどれほどの亀裂が入っていたのか知りもしないで、名前ならきっとどんな結末に帰着しても立ち直ってくれるだろうと過信して。もちろんふたりの仲が拗れるようなら俺も手を貸すつもりでいて。だから――大丈夫だろうと。そうなったらなったで、通常の喧嘩の仲裁と何ら変わりないものと同じように振る舞おうと、浅はかにも中学生だった俺は自信満々に目論んでいた。
こちらからの精いっぱいのエールに名前は可笑しそうに笑っていたのを覚えてる。
暗かった表情はもうすっかり翳りもなくして、俺は相手の和んだ空気に胸を撫で下ろして。ああ、よかった。これなら平気そうだなって。愚かしくも、そう見過ごしてしまった。

けれど俺の見通しは甘かったのだと、いいや、現実は非情なのだと、この数日後に俺は痛感する形で思い知らされることになる。

名前、ごめん。
俺は、おまえの花のかんばせを曇らせたくなかっただけなのに。

彼女はもう、俺たちの隣にはいない。
俺たちがかつて立っていたその居場所には、今や"別の人間"が我が物顔で占領していた。