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とある郊外の、まさしく鬱蒼と蒼く月明かりにてらつく森でのことである。
とっぷりと宵闇に浸った地面に、男はだらしなく腰を抜かしていた。状況を理解してもなお、膝が小刻みに笑ってしまって凄惨なシチュエーションから脱することができない。
男の目の前には、黒があった。
闇のように青ざめた、それでいてはっきりとくっきりと形を浮き彫りにさせるような、生きた黒が。
異変、異様、異質、異物。それを自分の持ち合わせるつたない語彙力で表すならば、化け物も言わずになんと言い喩えようか。
微かに針葉樹が頭をたれる程度の風に揺れる黒の奥は、フードによって月明かりすら遮断していて伺うことはできない。時折、向かって右に垂れる金色の金具と括られている青緑色の細い髪が細く細く月に溶ける。
何よりも男を恐怖のるつぼに落としているのは、異質な黒が携える異形の鎌だった。木の上に立っていて本当のところの身長は分からないけれど、明らかに自分よりもその黒よりも大きい鎌。しゃなりと撓る刃先が蒼く赤く、弧を描いて笑っている。不気味さをふんだんにあしらったように。

「……あ、うああ、っ」

何か言わなくては。何か、そう、何か。
男は考える。がくがくとみっともなく震える膝、湿った土で汚れた自分を、思い浮かべて、考える。
何かしなくては、自分はここで死んでしまうであろう未来が、すぐに浮かぶ。
そうして、男は、言う。

「死にたく、ない……」

心の底からの、魂の底からの叫びだった。叫びだなんておこがましいほど掠れて震えてしゃくれて途切れ途切れな言い様だったけれど。

黒は別段動くことはなかった。動いていたであろう痕跡の上に平然と気だるげに立ち止まっている。良くも悪くも、ことなさげに。
まあ、黒――死神にとって“この凄惨な現場”はことなさげどころか何と言うこともない場面なのだ。日常、なのである。
死神は息をつく。その一挙一動に男がじゃりりとおおげさに反応する。

――うっぜ。

死神はたゆんととろみのある赤黒い血を見つめた。鎌についたそれは恍惚の表情を浮かべている。

「お前だろ、“これ”やったの」

鎌の血を落とすためにおおげさに振り落としながら、死神は男に問いかけた。問いかけるというよりも、確認を取るためだけの作業だった。
これ――つまるところの残忍で残酷な、自分の足元に広がる死体の絨毯のことなのだけれど。消えてしまいそうな宵闇に埋まった男の膝がぴたり、と止まった。

「お前だろ、同族サン」

全く面倒なことをしてくれたじゃねえか、と鎌をくるくると回す。
その時、目を瞑るほどの風が駆け抜けた。男は風に従い目を伏せる。死神は腕で髪にしがみつく金具をおさえる。

「お、お前……まさか……」

風が引っ張って肩口に落ちたフードが名残惜しそうにはためく。ぴこり、とふたつ耳の上ではねた癖毛と、死を纏う髪色、怠く半開きの眼は赤く、冷たい光を取り込んでいる。
――死神だ。

そう男が震え上がるのを横目にすら見ず、死神は指の先でつん、と浮き出た羊皮紙をつついた。

「……エドワード・ロード。えーっと面倒くせえ。要するに死神の鎌を仕事以外で使ったことと、それが、ヒトゴロシであることなど13の規約に違反してんだとよ」

言わなくても解るよな?と死体を踏み潰しながら一歩、また一歩と男へと歩いていく。
男は逃げられなかった。膝が真顔になっても、たとえ泣き顔になっても、それは変わらなかった。

「死にたく、な……!」
「ああ?そりゃ無理だ、どのみち死ぬし」

何故なら――男には膝から下がないからだ。
そんなことはようとして知れている。それに、普通の人間ならばもう死んでいてもおかしくないのだ。それでもそうならないのは、男が、男“も”死神だからだろう。
それでも、そんな身でも叫ばずには居られない。

「嫌だ!死にたくない!俺は何もしていない!そうだ、任務をしていたんだ!それで、それで邪魔をしたから処分した!それは規約違反じゃないはず!そうだろう?!?!」

タガが外れたように、壊れたコピー機みたいにどんどん吐き出される言葉。苦し紛れの言い訳だ。それでも、堕ちた死神は必死だった。
殺すのはいい、だが、殺されるのはいやだ。
男の脳内を犇めくのは、そればかりだ。

「死神っつうのは、常に監視されてんだ。お前みたいな下っ端は特にな。まあ、俺みたいなのは例外だけれど。だから言い訳や嘘なんて通用しない」

――あとは、解るよな?
シニカルに口元を歪ませる死神を、堕ちた死神は見上げる。その顔はだらしなく涙やよだれを滴らせている。
それからよ、と。死神は蒼く笑う鎌を握る。

「俺、汚ねえもん嫌いなんだわ」

宵闇に振り降ろされた鎌が赤く赤く高らかに笑った。

郊外の森は宵闇に浸されて、今日も不気味に青ざめている。慌ただしく走る風を針葉樹が迷惑そうによけている。
影が1人、鬱蒼と暗澹した舞台を見下ろしている。血を飲む地面が、時折月明かりに見下ろされてたぷんと揺れる。
少年の目の前には、黒があった。
闇のように青ざめた、それでいてはっきりとくっきりと形を浮き彫りにさせるような、生きた黒が。
異変、異様、異質、異物。それを自分の持ち合わせるつたない語彙力で表すならば、化け物も言わずになんと言い喩えようか。
微かに針葉樹が頭をたれる程度の風に揺れる黒の奥は、フードによって月明かりすら遮断していて伺うことはできない。時折、向かって右に垂れる金色の金具と括られている青緑色の細い髪が細く細く月に溶ける。
何よりも少年を好奇のるつぼに落としているのは、異質な黒が携える異形の鎌だった。木の上に立っていて本当のところの身長は分からないけれど、明らかに自分よりもその黒よりも大きい鎌。しゃなりと撓る刃先が蒼く赤く、弧を描いて笑っている。不気味さをふんだんにあしらったように。

黒がふっと顔を上げた。赤い眼と気だるげに垂れる金色の金具の光が少年を絡めた。なんて燃えるような冷たさを宿しているのだろうか。少年は息をのむ。

「……あ?」

息を吐き出すよりも前に、少年の意識は夜に紛れて沈んでいった。

「好奇心は身を滅ぼすって奴だ、寝てな」

今日の月明かりはやけに青い。

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