はあ……と大きく吐いた白い息が宙に溶け込んだ。
ここクレイモランでは、一年のうちのほとんどが雪に覆われており、この白い景色がオレのすべてだったんだ――。
包帯を口にくわえて、自分の手に巻いていく。
水仕事はこの時期は特に辛い。薬を塗っても治らないあかぎれができるから。
ぎゅっときつく結べば、痛みが少し和らいだ。
逃げ出したいなんて何度も思って、夢にさえ見た。
それでも、この仕事しか今のオレにはないから、ただひたすら働くしかない。
親も家族も味方もいない兄妹二人では、妹を守れるのは兄貴のオレしかいないんだ。
ポケットから丸い平べったい瓶を取り出して、手の中で転がしながら眺める。
手の傷によく効くと貰ったこの薬は、まだ一度も使えてない。もったいなくてなかなか使えないと知ったら、これをくれた彼女は呆れるだろうか。
「おい、カミュ。船の準備だ!手伝え!」
「……へーい」
再びポケットにしまって、立ち上がった。
次、会えるのはいつになるだろうか。
あのすべてを覆い尽くす白い景色が大嫌いだったのに、それでもあの場所がオレのすべてなんだ。
何日かぶりに戻ってきたクレイモランは変わらずの景色だ。
楽しげに走り回る子供を横目に、オレが向かう先はいつも決まっている。
町の大通りにある小さなパン屋。
ドアを開けるとカランとベルが鳴って、客が入ってきたことを知らせる。
「いらっしゃい――あ」
「……よお」
「カミュ、お帰り!久しぶりだね」
パンの甘い香りに負けず劣らず、彼女の笑顔は甘い。
彼女――ナマエはこのパン屋で評判の看板娘だ。
明るい笑顔と親切な接客に、ファンも多い。
「今日はなに買ってく?あ、今このパンが焼きたてよ」
「そうだな……。じゃあいつものとそれくれ」
指を差した際に、ナマエの目が止まった。きっと巻かれた包帯にだろう。
「カミュ、ちゃんと薬使ってくれた?」
「ああ、使ってる。塗ってその上から包帯を巻いてんだ」
「嘘」
「嘘じゃねえよ」
「カミュ、嘘つくとき鼻が動くんだよ」
「……マジか」
「これは嘘」
「……。お前なぁ」
ナマエはおかしそうにクスクスと笑う。
その笑顔にいつだってオレの心は擽られてしまう。
「カミュ、ちょっとこっち来て」
「え…」
「おかみさーん、ちょっと抜けるね」
手を引かれて奥の部屋に連れて来られた。小麦粉や食材、物置として使っている部屋だろう。
「座って」
「…おう」
言われた通りに、小さなスチールに腰掛ける。
どこかへ消えたと思ったナマエは、すぐに手に薬箱を持って戻ってきた。
向かい合わせに座り、その手がオレの手を取る。白く傷のない綺麗な手は、愛されて育ってきた証拠だ。
そして、オレの手に巻かれた包帯をゆっくりとほどいていく。
「……やっぱり、カミュは嘘つき」
オレの手は、ナマエとは反対の傷だらけの手だ。
「もったいなくて使えなかったんだよ。薬だってそんな安くねえだろ」
「……バカね」
やっぱり呆れられた。なのに、オレの手の手当てをしてくれる。
優しく薬を塗って、丁寧に包帯を巻き直してくれる。
特別な言葉を交わさなくても、この心地好い空気が堪らなく好きで。
(包帯、ほどけなくなっちまったじゃねえか)
オレは、ナマエが好きだった。
「はい、終わり」
「サンキューな」
「今回はいつまでこの町にいるの?」
「わかんねえ」
「そう…だよね」
店に戻ってパンを買う。短い逢瀬はこれで終いだ。
「また、来てね」
「おう」
店を出ようとしたら、カランとベルが鳴って、オレと入れ違いに客が入って来た。
「あ……いらっしゃいませ」
「やあ。今日の笑顔も一段と素敵だね」
最近、ナマエと噂になってる貴族サマ。
近々求婚するとかなんとか。
(オレにはどうでもいい話だ)
そうやってまた、嘘をついた。
次の航海は、積み荷に紛れての船旅になった。
この船の行き先がどこか知らない。
慌てて乗り込んだのだから。
「…………」
狭い隙間でぴったり挟まるように、膝を曲げて座っていた。
何も見えない暗闇の中、この薬の瓶の感触だけが、精神を繋ぎ止めてくれる。
いつか……ナマエと二人で、知らない国に行けたら良いななんて夢見ていたことを思い出した。
現実はどうだ。
オレは独りで、すべてから逃げ出した。
黄金に成り果てた妹から、国から、彼女からも――。
(もう、帰れない……)
あの白い景色が、懐かしく思えるなんて夢にも思わなかった。
オレは、これから罪を背負って生きていくから。
(この先にもういない君は、どうか幸せに生きてくれ)