この世界には、人魚という存在がいる。
上半身は人間の女性で、下半身は魚のヒレを持った、海に住む種族だ。
その美しい姿は、船乗りを骨抜きにしてしまうという伝説は有名だろう。
それは時に……この近海を支配する、海賊さえもとりこにしてしまう――。
「なあ、いい加減に出てきてくれ。会いに来るのが遅くなったことは謝る。この髪飾りを手に入れるに、時間がかかったんだ」
人どころか魔物もいない、幻想的な入り江。
訪れた青い髪の青年は、この辺りの海を支配する海賊だ。
貴族のような上質なコートに、右目には黒い眼帯。暗闇でもすぐに順応できるためのそれは、警戒心の現れ。
そんな彼は、まいった……という表情を浮かべていた。
「ほら、綺麗だろ?お前が好きな花と同じ色の宝石の髪飾りだ。探すのに苦労したんだぜ?」
――ナマエ?
そう海賊は水の下に問いかけるが、水面は揺らめきもしない。
どうしたもんか……と、思った直後、
「うわっ」
背後から、彼は思いっきり海水を被った。
故意的にかけられたものだが、彼が怒ることはない。
「……やっと、出てきたか。ご機嫌ななめな人魚の姫さま」
「カミュ!私はね。髪飾りよりも、あなたが来てくれる方が嬉しいの!」
水面から顔を出したナマエは、美しい顔をムスッとさせていた。
「ずっと……待ってたのに……」
ぼつりと拗ねたように言う言葉に、カミュはフッと笑う。
「悪かった……。でも、この髪飾りをプレゼントしたかったんだ。きっと似合う」
カミュが手を差し出すと、ナマエはその手を掴んだ。
水中から引き上げられ、現れたのは美しいヒレ。
彼女は人魚だ。カミュだけの人魚姫。
横座りするように、カミュの隣に腰かける。
日の光によって、七色に輝くその鱗は、人魚の中でも珍しいのだとナマエは以前に言っていた。
「な?綺麗だろ」
「本当……キラキラ輝いて……すごく綺麗!」
手のひらに乗せてもらった髪飾りを、ナマエは眺める。
細かい装飾をされており、人魚界ではない技法だ。
「着けてやる」
再びカミュはその髪飾りを手にすると、その髪に着けた。
思っていた通り……
「よく似合ってるぜ」
「本当?――……」
ナマエは水面を鏡代わりに見る前に、カミュの手に遮られた。
片手で頬を固定するように包まれ、唇を塞がれる。
啄むような口付けが繰り返される。
少しだけ、その唇が離れたと思えば、カミュは笑いながら呟いた。
「……しょっぺえ……」
だって、今まで海中にいたんだもの――。
そうナマエが答える前に、再びカミュの唇はその唇に重なった。
対して、彼の口付けは甘い。強引に求めて来るのとは裏腹に、いつも優しかった。
濡れることも構わず、抱き締める腕も――髪を撫でる手つきも。
飽きるまで口付けを交わし、愛を確かめ合っていると、――もう夕刻だ。
「……明日も会いに来てくれる?」
「ああ、明日も会いに行ってやる」
「じゃあ、待ってる」
「ナマエ、何か欲しいものはあるか?」
「んー……カミュ」
「もうお前のもんだろうが。これ以上欲しがるとは、海賊以上に欲張りな人魚だな」
カミュの返答にナマエはくすくすと笑う。
いつだって欲しいものを聞いてくれて、いつも素敵なものをプレゼントしてくれる。
とても嬉しいけど、ナマエは何より、カミュが側にいてくれさえいれば良かった。
「じゃあね……カミュ」
彼女はゆっくり水中に沈むように、自身の世界へ戻っていく――……
人魚と人間。結ばれぬ定めと知りながら、恋に落ちてしまった。
いつまで一緒にいられるかわからない。
だからこそ、少しでも共に時を過ごしたいと思った。
カミュは海を渡り、人魚と人間が共に共存する道を探してくれている。
でも、そんな道があるのかわからない。
今まで地上に上がった人魚も、海底に暮らすことにした人間も、上手くいった試しがないから。
長い時の中、何人もの人魚と人間が恋をしては、その恋は儚く泡となっていった。
これが運命と思えば、受け入れられる。
この海と一緒だ。抗わず、流れるままに。
(いっそのこと、彼に溺れて死んでしまえれば――)
この胸の痛みも消えてなくなるのに。
翌日も、約束通りカミュは会いに来てくれた。
ナマエはいつものように、笑顔で迎える。
「これはなに……?」
「なんだと思う?」
カミュは会いに来る時は、いつも何かしらの土産を持ってきてくれた。
今日は丸くて黄色いものだ。
「あ、わかった!ボールね!人の子が遊ぶ!」
「はずれ。これはな……果物だ」
「え、果物?」
果物は地上の食べ物で、何度かカミュが持ってきてくれて食べたことがある。
甘くておいしいので、彼女も気に入っているが、果物と言うには堅い。
カミュは小型のナイフを取り出すと、その果物を半分に切る。すると厚い皮の下、瑞々しい果肉が現れた。
さらに器用に一口に切って、
「ほら、ナマエ。食ってみろ」
彼女の口に持っていく。
「……本当に果物だわ!それにすっごく甘いのね」
おいしいと笑顔になるナマエに、カミュも満足そうな顔になる。
「この辺りにはない果物だ。雪が降る地域に育つから皮が厚く、その分中身は甘い。……懐かしい味だ」
「雪が降る地域……前に言ってたカミュの故郷?」
「ああ」
「私、カミュの故郷に行ってみたい」
「連れてってやりてえけど、お前が凍っちまうからな」
「その凍るっていうのがよくわからないわ」
ここは一年中暖かい海域だ。きっと、彼女は寒いというのもよくわからないだろう。
説明が難しいな。カミュは頭を悩ませる。
「まあ、でも、一つだけ方法がある。――水槽だ」
「すいそう……?」
水槽とは、大きく透明な箱のようなものだという。
そこに水を入れて、人魚が暮らせるようにすれば、ナマエも一緒に船旅ができる。
「カミュ、私、その水槽に入りたい。一緒に旅したいわ」
「今用意してるところだ。ナマエが大丈夫そうなら一緒に旅をしよう。オレの故郷に連れてってやる」
「きっと大丈夫よ!行きましょう!」
船酔いとかするかもしれねえだろ?と言おうとしたが、ヒレをゆらゆらさせてる彼女は人魚だ。
人魚が船酔いするわけねえか――カミュは笑った。
「カミュ?」
「いや、なんでもねえ」
その準備があるからしばらく来れねえとカミュの言葉に、ナマエは渋々と了解した。
水槽は大規模な改装工事ののち、カミュの大きな海賊船に取り付けられた。
カミュの自室に設置されて、悠々と泳ぐことはできないが、潜れるぐらいの深さがある。
準備も整い、カミュはいつもの入り江にやって来た。
「ナマエ、俺だ!」
姿が見えないので、カミュは名前を呼ぶ。
ざばぁと音を立て、水飛沫が上がる。
「あなたがナマエの恋人のカミュさんっ……?」
「あんたは……」
現れたのは、ナマエではなく別の人魚だった。
「あの子を助けてあげて!」
必死な様子に、すぐにカミュは事態を把握した。
ナマエが拐われたのだ、と――。
「拐ったヤツらはどんなヤツかわかるか?」
「ええと、確か船に人間の文字で……」
その名は王国の名前だった。カミュには心当たりがあった。
国王のよからぬ噂。強欲で、収集家。
手に入れるためなら、そこに慈悲はなく、海賊のような男。
人魚を手に入れようとしてもおかしくない。現にナマエは拐われた。
(絶対に許さねえ――)
カミュの中に、怒りの炎が黒く燃え上がる。
「大丈夫だ。ナマエは俺が必ず救い出す」
それを表には一切出さずに、カミュは人魚に言った。
ナマエが拐われてからまだ時は経っていないという。
「アニキ!見つけたぜ!」
船はすぐに見つかった。カミュは船員たちに静かに命令を下す。
「船を沈めろ」
一切の容赦はしない。これは、海の覇者から大事な宝物を奪おうとした罰だ。
「――ナマエ……おい、大丈夫か」
遠くで船が燃え上がる中、カミュは気を失っている彼女に呼び掛けた。
外傷はなさそうだが、魚のように魚網で捕らえられている姿を見た時は、カミュははらわたが煮えくり返る思いをした。
「……ん……カミュ……?」
「ああ、オレだ」
「い、いきなり人間たちが……っ」
「ナマエ。もう大丈夫だ」
真珠のような涙を流す彼女を、カミュは抱き締める。
もう大丈夫だ、オレがお前を守る、これからはずっと一緒だ――そんな言葉を繰り返すと、ようやくナマエは落ち着いたようだ。
「旅をしよう。オレの仲間たちを紹介する。気のいいヤツらだ。お前のことを傷つけるヤツはここにはいねえ」
「カミュの仲間だもの。安心だわ」
無事だということを知らせるためにも、一旦海底王国にナマエを送り届ける。
"旅に出る前にやるべきことができた"
と、カミュは七日後に迎えに行くと、彼女と約束を交わした。
「――で、アニキどうすんの?」
「あの王族を滅ぼす。親族ともども血を根絶やしにしてやる」
カミュの妹のマヤは「執念深いこった」と笑う。
ま、どうせ暴君と噂だったし、滅んだ方が世のためかもな!と、気楽に思うマヤも少しズレていた。
「迎えに行くまでの七日間で蹴りをつけるぞ――!」
「「おおおお!!」」
若き船長の命令に船員たちは従う。この船に乗っている者は、彼にどこまでもついて行こうと思う者たちだけだ。
――その数日、青き海賊の急襲によって、一国は滅びる。
城から上がる狼煙は、まるで二人の門出で祝福するかのようだった。
「なあ、ナマエ。ずっと泳いで疲れねえのか?」
「カミュ、人魚は泳ぐのが得意なの。これぐらいへっちゃらだわ!」
そんなことは露知らず。船についていくように泳ぐナマエは、見上げながら言った。
「それに、あんな小さな水槽にずっといたら息が詰まっちゃうわ。もっと大きく作ってくれたらよかったのに!」
「あれが限界の大きさなんだ。我慢してくれ!」
わがままな人魚さまなこった――口ではそう言いながらも、カミュの口許は笑っている。
この旅は始まりで、カミュは何があろうと決して諦めたりなどしない。
人間と人魚――共に生きる道を。
死が二人を分かつまで、いや、たとえ死が訪れても、その魂は永遠に彼女と寄り添うことを、海賊はこの大海原に誓う。