渓谷地帯にひっそりと小さな村がある。
イシの村という、のどかな農村だ。
そんなのどかな村で、幼いエルシスはすくすくと育っていた――
「カエルつかまえたっ!この子で何か面白いイタズラはできないかな?」
イタズラ好きなエルシスは、カエルを両手のひらに挟むように捕まえたまま、う〜んと考える。
昨日は村の看板に「王さまからのめいれいです。この村のエルシスはよい子なので、みかけたらあめ玉をあげましょう」と書いたのだ。
きっと、今日はあめ玉を両手いっぱいにもらえるはずたがら、早く手を空けなければならない。
「あっそうだ」
エルシスは思い付いて、道具屋に向かった。
店番の老婆が背を向け、品物の整理をしている間に。エルシスはこっそりと侵入し、水瓶にカエルを忍び込ませた。
ささっと店から出て、隠れながら様子を伺う。
しばらくすると「ぎゃあ!」という悲鳴が聞こえて、エルシスはクスクスと笑いながらその場から離れた。
「こんなイタズラするのはエルシスだね!」
老婆が怒って店から出たときには、すでにエルシスの姿はない。
「ばあさん、どうしたんだ?」
「水がめのフタを開けたらカエルが飛び出してきおった!」
「エルシスちゃんね。そういえば、看板にラクガキがしてあったわ」
「あの子は大のいたずら好きだからねえ」
「まったく、いくつ寿命が縮んだと思うんじゃ!今日という今日は許さんぞ!」
そう寿命が縮んだと思えないほどきびきびと動き、エルシスを血眼になって探す彼女の姿に、村人たちは眉を下げて笑った。
村一番のいたずらっ子――逃げるエルシスが隠れる先は、決まって馬房である。
エルシスは馬が大好きだった。
小さな彼はまだ一人で馬に乗れないので、早く大人になって自由に走りたいなぁと馬を見上げながら、今日も思いを馳せる。
「やあ、エルシス。またイタズラして逃げてきたのか?」
「うんっ今日はどうぐ屋の水がめに、カエルを入れてみたんだ」
「そりゃあ、ばあさんは驚いてひっくり返っただろ」
「大成功だったよ!」
想像してくくっと笑う馬丁の男に、エルシスも得意気に笑った。
「……ねえ。この子は?ほかの子とはちがう部屋にいるけど、病気なの?」
心配そうに聞くエルシスに、馬丁の男はその小さな頭にぽんっと手を置いて答える。
「こいつは村でいちばん足の速いウマでね。もうすぐ、母親になるんだ」
「ははおや……?」
「そうだ。きっと、こいつによく似た足の速い子を産んでくれるだろうよ」
エルシスは葦毛の馬を眺めた。
母親ということは、お腹の中に赤ん坊がいるのだ。
じっと母馬の腹を眺めるが、人間とは違うのか、よく分からなかった。
「子馬がうまれたら、僕、乗れるかな?」
「そうだな。産まれた子が大きくなって、訓練したら乗れるかもな」
「乗りたい!僕、いちばんに乗りたい!」
「ったく、気が早いなぁ。まずはこいつに元気な子が産んでもらわないとな」
エルシスは頷き「元気な子を産んでね」と、母馬に優しく声をかけた。
馬房から出たエルシスは――村の中央にある大樹の側で、泣いているエマの姿を見つける。
「エマ!どうしたんだっ?」
「エルシス…ぐすんっ。あたしのスカーフがっ……」
泣きじゃくるエマの代わりに、大樹の上の方に向かって吠えるルキ。
どうやら、エマのスカーフが風に飛ばされ枝に引っ掛かったらしい。
「待ってて!僕が取ってくる」
エルシスはそうエマに告げ、大樹に足をかける。木登りは得意だ。だが、スカーフは高い枝に引っ掛かり、足をかける場所がない。
「よっ…と」
エルシスは大樹から飛び降りると「テオおじいちゃんからはしごを借りてくる!」と、急いで駆け出した。
「ねえ、おじいちゃん!はしご知らない!?はしご!エマのスカーフが木の上に飛ばされたんだ!」
「ははは、わかったわかった。待っておれ。今行くでな」
祖父のテオを見つけた途端、勢いよく話すエルシス。
テオは大慌てなその姿に笑って、釣りを切り上げ、立ち上がる。
「……おや?」
そこで彼は、エマに案内されるようにこちらに歩いてくる、"二人"の姿が目に入った。
「エルシス。はしごなら大丈夫よ。あのお兄ちゃんがスカーフをとってくれたから。それでね、このお姉ちゃんがあなたに会いたいって!知ってる人?」
エマの言葉に「僕に?」と、エルシスは不思議そうに二人を見上げる。
若い男の人と女の人。女の人は見たことない目の色をしている。綺麗な人だ。
「ううん、知らないよ」
首を横に振って、エルシスがそう答えると、二人は何やらひそひそと内緒話をする。「?」
「ふむ……。あのお嬢さん達はわしに用があるようじゃ。エルシスとエマは向こうで遊んでなさい」
そっか、テオおじいちゃんのお客さんだったんだ――エルシスは納得して、エマと一緒に「はーい」と元気よく答えた。
二人は大樹まで戻ってくると「おかしいなぁ」と、エルシスがふと呟く。
「何がおかしいの?エルシス」
「看板に「王さまからのめいれいで僕にあめ玉をあげるように」っと書いたのに、ちっとももらえない」
「もうっエルシスったら。そんなのエルシスが書いたってバレバレよ。まだまだこどもね」
「エマだって僕とおなじ歳のこどもじゃないか」
「でも、あたしの方が"せいしんねんれい"はオトナよ」
「せいしんねんれいってなに……?」
幼い会話をしていると「あっ」エルシスは先程の二人の姿に気づき、彼らに駆け寄った。
「お兄ちゃん!さっきはお礼を言いそびれちゃったけど、エマのスカーフ、取ってくれてありがと!」
「……どういたしまして」
お礼を言われて、彼は優しくエルシスに微笑む。
よく見ると所々服が汚れていて、きっと昔のテオと同じ旅人なんだとエルシスは気づいた。
「お兄ちゃんもお姉ちゃんも、またこの村にあそびにきてね!」
次は旅の話を聞きたいな――。二人は笑顔で手を振り返してくれる。
満足げにエルシスはエマの元へ戻り「なにして遊ぶ?」と、次の遊びの計画を立てた。
夕刻までエマとルキと遊び「ただいまー!」と元気よく家に帰って来たエルシス。
「おかえり、エルシス」
「今日、シチュー!?やったー!」
「エルシスはシチューが本当に大好きじゃのう」
母のペルラがおいしい夕食を作って待っており、テオと三人で食卓を囲む――。
エルシスは、そんな毎日が幸せだった。
二人とは血の繋がりがない家族とはすでに知っていたが、エルシスはどうでもよかった。
二人は、本当の家族と変わらない愛情を注いでくれているから。
季節は巡り、ある日の朝――あの母馬に子馬が産まれた。
母親と同じ葦毛の、可愛い子馬だった。
まだ覚束ない足取りの子馬に「早く一緒に走りたいなぁ」と、楽しみにするエルシスだったが……。
母馬は難産に堪えられず死んだと聞かされると――エルシスは大泣きした。
幼い心に死は何かとよく分かっていなかったが、それは酷く悲しいことだと本能で分かったのだ。
初めて大泣きするエルシスに、ペルラはオロオロしたが、テオが言い聞かせるように優しく慰める。
「エルシスは優しい子じゃのう。悲しいときはたくさん泣いてよい。だがエルシス、これだけは覚えておいておくれ。生きている者は、死を乗り越えなければならん」
この世で平等なのは"死"だけと云われるように――命ある者、いつかはその命を終える。
幼いエルシスにはまだ理解できないだろうが、テオは伝えなければならないと思った。
自分は、エルシスより先に逝く。
その時がやって来たら、自分の死をちゃんと彼が乗り越えられるように。
「それが、生きるということじゃ。死した魂は大樹に向かうが、命はわしらが繋がねばならん」
「命をつなぐ……?」
「誰かの分まで精一杯生きるのも、命を繋ぐことなのじゃよ」
「じゃあ、僕、せいいっぱい生きる!」
元気よく言ったエルシスに、正解だと言うようにテオは笑顔で頷いた。
この言葉の意味を、エルシスがちゃんと理解できたのは、数年後のテオの死によってだった。
病死ではあったが、最後は眠るように旅立ったテオを、村人全員で送り出す。
今度は、エルシスは泣かなかった。
溢れぬように必死に目に涙を溜めて、代わりにおいおいと泣いているペルラのその肩に、そっと寄り添う。
エルシスが泣いたのは、その日の夜のベッドの中だ。
(テオおじいちゃん――僕はおじいちゃんの分まで精一杯生きるよ)
そう胸に誓いなら、彼は目を閉じる。
月日はエルシスを成長させた。
身長や体格だけでなく、その心も。
また季節が巡れば、成人の儀式を行い、彼も立派な大人の仲間入りである。
――成長しても、エルシスは朝が苦手だった。
だが飼っているニワトリの鳴き声によって強制的に起こされ、彼の一日が始まる。
重たい瞼のまま、寝巻きから着替えたエルシスは「おはよう」とすでに起きてるペルラに朝の挨拶をし。
ニワトリにエサやりと、小屋を掃除しながら卵を収穫する。
それから朝食だ。先ほど収穫した卵が、さっそくオムレツとして食卓にのった。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
朝食を食べたら、エルシスが向かう先は馬房だ――。
「おはようございます!」
「おう。おはよう、エルシス」
彼はここで馬の世話の手伝いをしている。
「おはよう」と馬たちにも挨拶しながら、まずは馬房の掃除だ。
肉体労働だが、力も体力もあるエルシスにはへっちゃらだ。
「はいはい、今あげるから待ってて」
綺麗になったら次は牧草を馬たちにあげる。馬たちは前足を掻いて、エルシスを急かした。
「――お前、蹄鉄の交換もすっかり慣れたなぁ」
「うん、前より早く出来るようになったよ」
曲げた馬の足を自身の足で挟み、手際よくエルシスは作業する。
馬の仕事に関して、ほとんどマスターしたのではないだろうか?と、馬丁の男は思う。
「エルシスは将来、良い馬丁になるな」
彼の周囲の人間は、エルシスはいずれ馬の仕事に就くだろうと思っていたが、彼の夢は別にあった。
「ほい、今日の分の小遣いだ」
「ありがとうございます!」
「結構貯まったんじゃないか。何に使うんだ?」
馬丁の男の問いに内緒と笑って答えて、エルシスは馬房を後にする。
「う〜ん、こまった、こまったぞ……。どうしたもんかな……」
――エルシスがその足で目的地に向かう途中、知り合いの男……と言っても、村人全員知り合いなのだが、何やら彼は道端で悩んでいた。
「おお、エルシスじゃないか!ちょうどいいところに来てくれた。ひとつ、頼みを聞いてくれよ」
「どうしたの?ドルフおじさん」
「じつはさあ、俺。こないだ息子と遊んでる時、アイツが大事にしてる"かざきりのはね"をうっかり、放りなげちまったんだ」
「失くしちゃったってこと?」
「いや、運よくお前んちの納屋の屋根に引っかかってくれたんだが、どうも俺は高い所が苦手でなあ。すまんが、俺の代わりに屋根に上がってかざきりのはねを取ってきてくれないか?人助けすると思って頼むよ!」
なんだ、それぐらい――エルシスは笑顔で二つ返事をする。
「お前ならそう言ってくれると信じてたぜ!「汝、みんなにやさしくせよ……」っていう村の教え、お前は守ってるもんな!」
「人助けは当然だよ。すぐ取ってくるから待ってて」
エルシスは自分の納屋に向かった。
木箱を足場に、屋根に上がると……あった。この羽だ。
エルシスは"かざきりのはね"を手に入れた。
「……ん?」
屋根の上に宝箱が……?
何故こんな所に宝箱が――エルシスは不思議に思いながら蓋を開けると、中からは50Gが出てきた。
……どうやらペルラのヘソクリだったらしい。エルシスはそっと元に戻したが、存在を忘れ去られてないだろうか。
「――おおっエルシス、おかえり!かぜきりのはねを取ってきてくれたんだな!それじゃ、そいつを俺に渡してくれるかい?」
エルシスはかぜきりのはねを渡した!
「おおっ!ありがてえ!これで息子の悲しむ顔を見なくて済むよ!さっ、こいつは礼だ。受け取ってくれ!」
お礼に"ゆめみの花"を受け取る。
「もし他に困ってるやつがいたら、同じように助けてやってくれよ」というドルフの言葉に、エルシスは「もちろん」と答えた。
ドルフと別れ、当初の目的の道具屋にやって来たエルシス。
店番は息子だと確認してから、中に入る。
「いらっしゃい――って、エルシスか」
「おじさん!」
「まあ、そう焦るな。ちゃんと出来てるぜ!」
男はその場にしゃがみ込み、ごそごそと取り出したのは――昔鍛冶をしていたという男が彼用に造った、
「イシの村人愛用の剣――その名もイシの剣だ」
「うわぁ……!」
赤い柄にシンプルな刀身だが、初めて手にする剣に、エルシスは感動する。
「これで晴れて"ひのきのこんぼう"から卒業だな」
「うん!やっぱり剣はかっこいいなぁ」
「慣れたら今度は大剣を造ってやるよ」
「本当に!?ありがとう!おじさん、これ少ないかもだけど……」
エルシスは今まで貯めたお金を差し出すが、いらないと男は断った。
「でも…」「成人になった、ちと早いお祝いだ」その言葉に納得し、エルシスは再度礼を言う。
エルシスは剣を装備した。
それだけで立派な大人になった気分だ。
ワクワクしながら、次は馬を借りに行く。
「あら、エルシス。また乗馬しに行くの?」
「内緒!」
「?……変なエルシス」
すれ違ったエマは不思議そうに彼を見送った。
馬を借りて、彼は渓谷地帯を走る。
人気のない場所に辿り着くと、馬から降りた。
時々村まで入ってくる魔物を倒す男たちの姿を思い出し――
「はっ!」
剣を鞘から抜き、見よう見まねの素振りをする。
エルシスが将来なりたいものは、旅人だった。
テオみたいなすごいトレジャーハンターになって、世界中を旅するのだ。
そのためには、魔物を倒せるようにならなくてはならない。
この辺りの魔物は大人しいが、秘境地帯には狂暴で強敵な魔物も生息しているという。
素振りが慣れたら、実戦だ。
スライムはひのきのこんぼうでも倒せたので、それより攻撃力が高い剣では楽々倒せる。
「もうちょっと強い魔物と戦いたいな………。でも、あんまり村から離れられないし……うーん」
家の手伝いや馬の世話、村人の手助けをし、合間に馬に乗って走って、剣の稽古をする――そんな風にエルシスの日々は過ぎていった。
――そんなある日。
エルシスはいつものように剣の稽古に向かう途中、異変に気づいた。
草原に目立つ赤いものが点々と付着している。
「っ、これって血……!?」
すぐさま気づき、彼は馬を止めて、跳び降りた。
嫌な風に心臓が鼓動を打つ、血の跡を辿ると――そのすぐ先に倒れているのは人……!
「!?」
少女だ。自分と同い歳ぐらいの少女が血塗れで地面に倒れていた。
「君、大丈……――」
背中に裂かれたような火傷のような、大きな傷が目に飛び込み、エルシスは絶句する。
一体彼女の身に何が……動揺していると「うぅ……」と微かに苦し気な声が届き、はっと気づいた。
まだ意識がある――!急いで応急処置だけし、馬の背にぐったりする彼女を腹這いに乗せ、落ちないように固定する。
自身は馬を引き、村まで全力疾走する。
頼む、死なないでくれ――そう、必死に願いながら。
血相を変えて、馬を連れて村に飛び込んで来たエルシスに村人は驚いた。
彼から事情を聞き、すぐさま大怪我をしている少女を、診療所に連れて行く。
たが、こんな小さな村でこんな大怪我を治療出来るのか――不安が渦巻く中、ちょうど訪れていた旅の神父が声を上げた。
「私は人々の助けになりたくて旅をしています。治療の知識も学んで来たので、もしかしたらお役に立てるかも知れません」
「おお、神父さま、頼もしいです。ではこちらへ……」
彼が少女の治療に加わり、エルシスは他の村人たちと共に、ただ祈る。
「エルシス……」
エマも心配そうに彼に寄り添い、少女の生還を祈った。
なんとか一命を取り留めたという医者の言葉に――ある者はほっとし、ある者は喜んだ。
「あの、彼女の様子は……」
「意識は混沌としとる。発熱もしとるから、鎮静剤で楽になると思うんじゃが、ゆめみの花だけが切らしておって、調合出来ないんじゃ」
「僕、持ってます!」
「おお、ありがとう、エルシス。さっそく調合しよう」
エルシスはお礼に貰ったゆめみの花を医者に渡す。こんな所で役に立つとは。
あとは、彼女の回復を待つだけらしい。
「一命を取り留めるかぎりぎりのところだったらしいから、助かって良かったよ。エルシスが早くにあの子を見つけたのと、医療に詳しい神父さまの治療のおかげだってさ」
この村は大地の精霊さまのご加護を受けてるから、きっとその奇跡だね――ペルラは続けてそう言った。
「でも、あんな辺鄙な場所でどうして倒れてたんかね」
「うん……ここら辺は狂暴な魔物もいないのに……」
エルシスは少女の背中の酷い傷を思い出して、ぞっとする。
彼女はどこから来て、その身に何が起こったんだろう?
目覚めたら分かることだが、――少女の意識は戻らなかった。
エルシスは今日も少女の見舞いに行く。
「今日はエマがお見舞いに花を持ってきたんだよ。エマは僕の幼馴染みで……」
そう話しかけるが、少女から返答はない。
早く元気になって欲しいと、その手を握り締めた。…冷たい体温だった。
少女が目覚めないまま、日々は過ぎる。容態は安定して、傷も良くなって来ているらしいが……。
このまま、彼女は目覚めないのだろうか。その美しい容姿も合間って、まるでお伽噺の眠り姫のようだ。
エルシスは今日も手を握ると――ふとその手が暖かいことに気づいた。
「……っ」
次の瞬間、ぴくりと指が動いた。驚き、顔を見ると、少女の髪と同色の睫毛が震える。
「ねえ、君…!僕の声、聞こえる…?」
「…………………あなた、は」
掠れた声が少女の口から出た。
エルシスの表情が明るくなり、同時に開かれたその瞳に、目が奪われた。
見たことのない、不思議な色をしている――。
その瞳に昔会ったような気が……いや、記憶を辿っている暇はない。
少女が目覚めたと、医者を呼ばなくては。
「……うむ。意識も容態も安定しているようじゃ。経過は良さそうじゃな」
「あの……ここは?」
「ここは、デルカコスタ地方の渓谷地帯にあるイシの村じゃ」
「……イシの村……」
「時にお前さんは、なんであんな辺鄙な場所に大怪我をして倒れておったんじゃ?」
医者の質問に、少女は黙る。まだ起きたばかりで頭が朦朧としているのだろうか。
エルシスは静かに見守った。
「………わかりません」
少女は片手で額を押さえながら答えた。
「……うむ。では、質問を変えよう。君の名前と、君はどこから来たのかな?」
「………………………」
少女は再び沈黙して、やがて「ユリ……」と、一言口にした。
「そう、呼ばれていた……気がする……」
ユリ――声に出さず、エルシスは口の中で彼女の名前を呟く。
「それ以外は、思い出せない……」
「思い出せない……?」
「これは……記憶喪失かも知れんな」
医者の言葉に、エルシスはショックを受けた。
自分の名前しか思い出せず、どこの誰かも分からないなんて。
(きっとすごく不安で、孤独だ――)
「助けてもらっただけでなく、お世話になってごめんね……エルシス」
「気にしないでよ。ペルラお母さんもその方が良いって」
歩けるほどに回復した記憶喪失の少女――ユリは、エルシスとペルラの家で、完治するまで身を寄せることになった。
「それに、エマ…さん」
「あたしもエマで良いわ。同い歳のように見えるし、あたしもユリって呼ぶから」
「じゃあ……エマ。この服、ありがとう」
「どういたしまして。あなたの元着ていた服はボロボロだったから、リメイクしてみたの。とても似合ってると思うわ!」
「エマは裁縫が得意なんだ」
得意気に言うエルシスに、エマは嬉しそうに微笑む。
「本当に、ありがとう……。私、どうやってお礼をしたらいいか……」
真摯に言うユリに「お礼はもういっぱいもらったよ」と、二人は笑った。
「じゃあ、僕の家に案内するね」
「ワン!」
「あら、ルキが案内してくれるみたいだわ」
「はは、本当だ」
三人は笑いながら歩く。
「ここは……自然豊かのとても良い村だね」
――そこに住んでいる人たちも。
物語が動き出す前の平穏な一時を、彼らは共に過ごす。