――なに聞いてんだ?
そう尋ねたら、聞かれるのを待ってましたとばかりに、なまえは揺れる花のように笑った。
10人中7人は見惚れそうな笑顔を向けてきたな、なんて分析していると、なまえは無言で近寄って来る。
くっつきそうな距離に驚く間もなく。
背伸びしたと思えば、片方のイヤホンを外して俺の耳に勝手に差し込んだ。
文句の一つでも言おうとしたが、片耳から聞こえる懐かしい曲に意識が持っていかれる。
「……アジカン?」
「そう。江ノ島エスカー。私、この曲好きなんだぁ」
江ノ島エスカーとは、江島神社近くから乗れる野外エスカレーターのことだ。
江ノ島には小学校の遠足とかで何度か行ったことがあるが、そういえばエスカーは利用したことがないな、と思い出す。乗らずとも歩いていける。
「一度乗ってみたいって思ってたんだけど、まだ乗ったことがないの」
なまえは眉を下げて笑った。近いからいつでも行けるだろうと思っていると、人間、なかなか行かないものだ。
「ねえ、凛。江ノ島デートしない?私の誕生日の前借りで!」
「……誕生日の前借りってなんだよ」
「それぐらいの大義名分がないと、凛の優先順位の一番にならないかなって」
「…………」
なまえはおどけて言ったが、確かに、と納得させられてしまった自分に少し罪悪感が生まれた。
別に彼女を蔑ろにしているつもりはないし、したいわけでもない。
ただ、俺のすべてはサッカーだというだけで。
それでも、互いに同じ想いを抱いて、自然の成り行きのようにこういう関係になった。
「別に……前借りなんて必要ねえよ。今度の休みに行けばいいだろ?」
そう言えば、今度は花が咲いたように笑うから、10人中10人が見惚れる笑顔だな、と思ってしまう。
現に俺は、自分が笑わなくなったから、なまえのその屈折のない笑顔に惹かれた。
***
鎌倉から江ノ島は江ノ電で30分程度だ。休日なせいもあり、観光客が多く車内は混雑している。
自然に縮まる距離……どころか、密着する身体に気まずい。
(いや、なんか話してくれよ)
いつもは向こうから話しかけてくるのが、今はなまえも無言だ。それがまた気まずさを深める。
電車が到着するまで、頭の中で昨日観たサッカーの試合をリプレイして紛らわした。(……あのループは神業だったな)
「――着いたぁ。車内、すごい人だったね」
「大丈夫だったか?」
「うん、凛が守ってくれたから」
「……うるせぇ」
くすくす笑うなまえに、そっちだって恥ずかしがってたじゃねえかと思う。
「ほら、いくぞ」
「待って」
その言葉に振り返ると、なまえは何やら片手をまっすぐ差し出していた。
その行動の意味は言われなくてもわかってしまう。
だから、こっちもなにも言わずにその手を握ってやった。
「今日はいい天気でよかった!」
「あちぃぐらいだ」
鎌倉と似ているようで、違う海沿いの景色。
弁天橋を渡って江ノ島へと向かう。弁財天仲見世通りも観光客で賑わっていて、人混みを避けながら坂を登る。
江島神社へもエスカーで行けるが、短い距離にここは階段を登っていった。
「見て、凛。景色がきれいだよ」
「けっこう登ってきたからな」
階段の途中で振り返ると、江ノ島の町並みと海が一望できた。
生まれたときから海は身近なものだが、この景色はいいものだと思う。
「せっかくだから、江島神社でお参りしてこう」
「そうだな」
神社に来たらと、列に並ぶ。確か、ここの神社は金運にご利益があったと思い出す。
金運に興味はないが、だからと言って他に祈ることもないと気づいた。
順番がやってきて、とりあえず手を合わせる。……まあ、隣の彼女のことでも祈っておくか。
「凛はなにを祈ったの?」
「言うかよ」
「私はね、凛のこと」
「……お前、それ話したらだめなやつじゃねえの」
願いを他人に話したら叶わなくなるとかなんとか。そして、どんなことを祈ったのかちょっと気になった。
神社を通りすぎると、江ノ島エスカー乗り場はすぐそこだ。
チケットを買って、エスカレーターに乗る。
念願の江ノ島エスカーだというのに、なまえの反応は乏しい。
「海が見えない……」
「海から離れてんだから見えるわけねえ」
「そもそも景色が見えない」
「トンネルだからな」
どうやらなまえはあの曲を聞いて、てっきり海が一望できるエスカレーターを想像していたらしい。
波音も聞こえないし、普通のエスカレーターだとショックを受けている。……面白い。
「あっ、凛、今笑ったでしょ」
そんなに表情筋は動かしていないのに、なまえに見抜かれた。素直に白状して「笑った」と答えたら、拗ねる素振り。そういう所、可愛いと思っている。
想像していたのとは違うが、海をテーマとしたプロジェクション映像はまあまあ楽しめたらしい。
「でも、やっぱり本物の景色よね!」
頂上に着いて、向かう先は江ノ島展望台だ。
「……あれに並ぶのか」
「うん、並ぶ」
マジか。当然のような言葉が返ってきた。アトラクションかよ。昔行ったときはこんなに人はいなかっただろ。
うんざりしていると、今度はなまえから手を繋がれ、引かれる。……まあ、今日はなるべく合わせてやるか。
――並んでいると、自然と近くの会話が耳に届く。
「俺の彼女が糸師冴が好きでさ〜」
「ああ、サッカーの?」
糸師冴……?
思わずその名前に反応した。一瞬にして不快感が込み上げる。会話は背後からだ。
「男から見てもかっこいいもんな〜」
「日本の至宝とか呼ばれてんけど、ぶっちゃけ顔だけでサッカーはそこまで上手くねえよな」
……あ?てめぇらの目は飾りか節穴か。パス、ドリブル、タッチ……どれを取っても隙がねえあの合理的を突き詰めたプレーをそこまで上手くねえだと……?
「ひぃ……!?」
「あ、あの、なにか俺たちしました……?」
「凛……反応し過ぎ」
振り向いただけなのに、何故か彼らに怯えられてなまえに咎められた。
「海、きれいー!」
「鎌倉は……あっちか」
野外展望台からは360度の湘南の海が一望できる。
天気がいいから海は青くて目に眩しく。
空に近づいたせいか日差しを強く感じるも、風が心地いい。
(あー……ずっとここにいられるな)
柵に腕をかけて景色をぼーっと眺めていたら「一緒に撮ろう」と、スマホのカメラを向けられた。写真はあまり好きじゃない。(ポーズとかわかんねえし)
「凛、もっとこっち寄って?」
「……」
しょうがねえなと思いながら、しぶしぶ撮られる。
「凛はお腹空いてる?混みそうだし、早めのお昼にしない?」
「そうだな。なにか食いたいもんあるか?」
「うん。調べてきたんだけど、近くにフレンチトーストの専門店があるんだって!そこに行きたいな」
「それ、メシじゃなくてデザートだろ」
……――うめえ。
「外はカリカリで中はフワフワでおいしい!」
(フレンチトーストってこんなオシャレな食いもんだったのか)
フレンチトーストの概念が覆った。テラス席では遠くに海も見えて、居心地もいいし……
「……ここで正解だったかもな」
「ん?」
「なんでもねえ。……なまえ、こっちのも食うか?」
デザートのようなお昼を食べたあとは、辺りを散策する。
「……おい、まさか鳴らす気じゃねえだろうな」
「せっかくだから鳴らさない?」
「鳴らしたきゃ一人で鳴らせよ」
「それじゃあ意味ないじゃない?」
断固拒否したのに、ほら…と無理やり連れられ、恋人たちに混ざって龍恋という鐘を鳴らされた。……はずい。
次にやって来たのは、島の最奥部にある江の島岩屋という海食洞窟だ。
「ここは涼しいね」
「洞窟みてえになってんから、ひんやりしてんだな」
小学校の遠足で行った景色となんら変わりはないが、非日常な雰囲気は新鮮な気分になる。
「あ、凛!猫がいるよー」
戻りは歩きで、途中で猫を愛でたり、仲見世通りで買い食いしたり。(あれだけじゃ足りねえ。しょっぱいの食べたくなるし)
帰りの江ノ電は座れて、隣同士に揺られる。
その間、片方ずつのイヤホンから流れるのは『江ノ島エスカー』だ。
(確かにこの曲聞くと、エスカーに期待するな)
「――帰ってきたね。今日は付き合ってくれてありがとう。すごく楽しかった」
「俺も、楽しかったよ」
鎌倉の駅に着いて、夕暮れの帰り道を歩く。鎌倉も観光客で賑わっているが、この道は地元民しか通らず、今は人通りもなく静かだ。波音しか聞こえない。
「……ねえ、凛はキスって、したことある?」
「……は?」
そんな静けさのなか、突拍子のない問いかけに、歩く足が止まった。自分の口から間の抜けた声が出て、なまえを見る。
「いきなりどんな質問だよ」
「江ノ島エスカーの曲に、そんな歌詞があったから」
あっけらかんとなまえは答えた。(んなもん、あるわけねえだろ)付き合ったのもお前が初めてなんだぞ――。
でも、そう素直に口にするのは、なんか癪だったから。
止まっていた足を、一歩踏み出す。
顔を近づける。戸惑いはなかった。いつかは触れたいと……思っていたから。
その唇に自身の唇を重ねて、今、してみた。
同じく歌詞にあるように、走ってもないのに心臓が逸っている。
「……これで、したことある」
――夕暮れが照らす。柄にもなく頬が熱い。赤くなっているかもしれない顔を隠せてよかったと思いつつ、なまえは頬を染めているのかわからなくて残念だと思った。