恋に落ちた蟻生くん

 朝の満員電車内で、頭一つ飛び抜けている少年がいる――蟻生十兵衛だ。
 少年と形容するには、身長も顔立ちもついでに性格も大人びているが、18歳の立派な現役高校生である。

 身長195cm。そんな高い視界から電車内を見渡せるからか、はたまたサッカーで鍛えられた広い視野のおかげか……

(ん……)

 蟻生は少女の異変に気づいた。男がニヤニヤと近づいていて、明らかに少女は嫌がっている。
 最近問題に上がっている触らない痴漢だろう。

(なんて、見苦しい……!)

 蟻生の美的センサーが反応した。
 あれはオシャじゃないと――。
 いや、オシャ以前の問題ではあるが、何はともあれ彼の目の黒いうちは見過ごせない。

「おい、そこの中年男。見苦しい真似はやめろ」
「な、なんだお前!(でけぇ……!)」
「彼女が嫌がっているだろう」
「何を根拠に……!」
「わ、私……!嫌です!」

 否認する中年男だったが、勇気を振り絞って少女が声を上げたことによって、周囲の厳しい視線がそこに集まる。

「うぅ……どいてくれ!」

 気まずくなった男は強引に車内を進み、別の車両へと移っていった。
 平穏になった車内に、少女は背の高い蟻生を見上げながら口を開く。

「あ、あの……助けてくれてありがとうございました!」
「礼には及ばない。災難だったな」
「よ、よかったら……い、いえ、次の駅で降りますよね」

 彼女の言う通り、電車がスピードを落とし、蟻生が降りる駅に停まろうとしていた。

「あっ違うんです!あの、すごく背が高くて印象に残っていたから、いつもこの駅で降りるのを覚えてて……」

 変な意味はないというように、慌てて弁解する彼女。あわあわと必死なその様子に蟻生は不思議そうな顔をしたが「そうか」と納得する。

「では、は失礼する」

 そう言って蟻生は颯爽と電車を降りていった。
 長く艶やかな黒髪を靡かせる後ろ姿を、電車の窓から彼女はぽーと眺める。

 あんなに美しい男の子は見たことがなかった。毎朝、一緒の電車に乗って、ずっと気になっていた。そしたら、見た目だけでなく、心まで美しい人だったなんて。

 彼に助けられた今日のことを、少女ことなまえは一生忘れないだろう。

(よ、よし……!)


 なまえは人知れず一大決心をする。


 翌日、蟻生は――いつもの朝の美容ケアを怠らず、美容成分たっぷりの朝食を取り、予定通り家を出て、いつもの電車に乗った。

 今日も完璧なオシャだ――。

「あ、あの……」

 そんなキラキラオーラをまとう蟻生に声をかけるのは、昨日の少女――なまえだ。

に何か用か?」
「昨日の、助けてくれたお礼をしたくて……これを……」
「見返りを求めて助けたわけではないが……その心がけはオシャだな。断るのは無下というもの」

 ありがたく頂こうと蟻生はなまえから、プレゼント用のリボンを付けられた封筒のようなものを受け取った。

「何が好きかわからなかったから……」

 中身はギフトカードらしい。

「では、新しいネイルオイルでも新調するか」
「ネイルオイル……!おしゃれですね」

 確かに彼の指を見ると、爪は綺麗に整えられていて、指も綺麗だ。いや、正確には指先まで綺麗――

「あっ」

 つい見惚れていると電車がガタンっと揺れて、体勢を崩すなまえを蟻生が胸元で受け止めた。

「大丈夫か?」
「だ、大丈夫です……!」

 慌ててなまえは離れようとするが、違和感に気づく。

「!」
 
 蟻生の長い髪が、なまえのブレザーのボタンに引っ掛かってしまっている。

「ごっごめんなさい!大事な髪を……!!」
「大事といえば大事だが……髪なら生えてくるからな」

 手入れ用の小さなハサミを持っているので切ってしまおうと言う蟻生だったが……

「だめです!!」

 なまえは大声でそれを制止した。周りの視線に気づき、はっと口を閉じる。
 これには蟻生も少し驚いた。大人しそうな少女だったから余計に。

「私、取りますから!細かい作業、得意なんですっ」
「…………」

 揺れる車内で。ブレザーのボタンに絡まった自分の髪を傷つけまいと、小さな指で必死に一本一本取ろうとする姿――

(な、なんだ……この気持ちは!?)

 そのなまえの姿に、蟻生は驚愕と共に自身の胸を押さえた。

 オシャとも違う感情。

 胸がぎゅっと苦しくなるような、甘酸っぱいような……。

(……!そうか、これが……胸きゅん!可愛いという感情……!)

 蟻生は今までは「オシャ」か「オシャじゃない」かで判断していたので「可愛い」という感情は初めて知ったのだ。

「……!取れましたぁ!」

 嬉しそうな声。見上げるようにぱあぁと眩しい笑顔を向けたなまえに――蟻生が胸に感じたのは愛しさ。


 人間、恋に落ちるときは一瞬なのだ。


「……君の名は」
「……へ?」

 どこかで聞いたことあるタイトルを蟻生は口にし、なまえはぽかんとする。

「すまない。まずは自分から名乗るのべきだな。の名は蟻生十兵衛だ」
「蟻生さん……」
「改めて……。君の名は?」
「わ、私、名字なまえ」

 なまえは自分の名前を教えて、次に蟻生は連絡先を交換した。
 まずはお互いのことを知らなければならない。


 蟻生十兵衛の恋はまだ始まったばかりだ。



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