Time's up U

見張りに話を通すと、すんなり部屋に入れた。中には頭に包帯を巻いたマルチェロがデスクに手を組んでおり、何故か部屋の端に神妙な顔をしたククールが立っていた。よく見れば、トロデ王もちょこんと居た。

「……これはこれは。お目覚めのようですね。話は全てこちらの方から聞きました。あらぬ疑いをかけ、申し訳ない」

マルチェロはトロデ王を一瞥すると、視線をエイトに戻して話を続ける。

「憎むべきはドルマゲス。あの道化師には神の御名のもと、鉄槌を下さねばなりますまい。ですが……私には新しい院長としてみなを導く必要がある。……そこで、です」

一呼吸置いて、マルチェロが後ろに立つククールに視線を向けた。

「こちらのトロデという方のお話では、みなさんもドルマゲスを追って旅しているとか。どうでしょう?ここにいる我が弟、ククールを同行させてはいただけませんか?」

すると、やぶ睨みをしながら、後ろからククールが口を挟んだ。

「……騎士団長どの。規律が守れぬ者は弟とは想わぬと、あなたが言ったのでは……」

「今はこの方々と話をしているのだが?お前は黙っていろ」

マルチェロは語気を強めながら言った。

「ククール。今修道院を離れても問題ない者はお前しか居ないのだ」

ククールは黙っているのが我慢ならない様子で、マルチェロに顔を向ける。

「…………」

「他の者には、それぞれこの修道院で果たすべき役目がある。その点、お前は身軽だろう」

嘲るようにマルチェロが言うと、とうとうククールは吐き捨てるように言葉を並べた。

「……つまり、役立たずだと。そう言いたいわけだ」

そうして、手のひらを返してククールはマルチェロの方へつかつか歩いてきた。

「なるほど。わかりました」

この言葉を皮切りに、ククールは忌々しそうに眉を寄せ、見下すように兄を睨んだ。

「それほどおっしゃるなら、こいつらについて出ていきます。院長のカタキはお任せを」

言葉と裏腹に丁寧に一礼すると、彼はさっさと部屋を出た。そこで、トロデも一緒に部屋を立ち去った。

「姫といっしょに、馬車で待っとるからな〜!」

彼らが部屋を出ると、マルチェロは立ち上がって手を打った。

「では!みなさん!ククールをどうぞよろしく。旅の無事をお祈りしております」

エイトも挨拶してそれぞれ出て行こうとしたところで、マルチェロはクローディアを呼び止めた。

「……少しお時間をいただけるかな?」

彼の問いへの答えは一つだ。

「はい。……皆さん、ドニで落ち合いましょう」

何の問題もないと、笑顔でクローディアは先に行くよう伝える。それでも皆は神妙な顔だった。しかし、エイトは素早く行動してくれた。

「わかった、先に行ってるね。いこう、ヤンガス、ゼシカ」

「……わかりやした」

「ええ、クローディア……待ってるわ」

エイトは何も聞かず、ヤンガスとゼシカを連れて先に行った。ゼシカが心配げに、扉が閉じる最後の瞬間までこちらを見ていた。



「さて、体の調子はどうかね」

「……特には何も」

二人の会話は淡白なもので、短い文のやりとりでしかない。暖炉の炎がパチ、パチと燃える音がよく聞こえる。

「本当にそうだと言えるか?」

マルチェロはデスクの脇を通り過ぎてクローディアの前に立つ。二人は目線をそらすことなく相手を見る。マルチェロの方が背が高いため、自然とクローディアが見上げる形になる。すると、突然マルチェロの手が動いて、彼女の胸ぐらを掴んだ。クローディアはいきなりのことにも動じず、真っ直ぐ彼の目を見つめている。

マルチェロは、そのまま彼女のローブの紐を解き、続けて青いブラウスのボタンを一つ一つ、ゆっくりと上から開け始めた。胸の半分程まで来たところで、意味深に彼は手を止める。それから、そっとブラウスをくつろげる。薄いブルーの布の合間から、普段なら日に当たらないが故に白く、きめの細かい柔肌が見えた。それと同時に左胸の上方、心臓の辺りに、その美しい肌には似合わない、黒く気味の悪い痣が見えた。それが見えると、マルチェロは鷹のような目を鋭くした。

「これがあっても、まだ平気だと言えるのか?」

クローディアは、目を閉じた。何も反論できなかったのだ。そうしている間にも、マルチェロはそっとその痣に右手で触れた。

「痛みはないのか?」

ゆっくり目を開けると、クローディアは静かに、諦めたかのように答える。

「痺れるような痛みがたまに……走るだけです」

「他には?」

「……他は何も」

「そうか」

マルチェロは痣をなぞるようにしてから、すっと手を離す。そして、元通りにボタンをかけ始めた。彼の中にある欲は、超人的な理性により抑えられていた。だが、一歩間違えればとんでもないことになる。目の前の彼女は、今の彼にとって麗しく、とても魅力的な女だった。幼少の頃、憧れと思慕の対象だった女性が、歳月を経てなお変わらずに、あの頃のまま目の前に現れた。どれほど彼の心をかき乱し、狂わせたか計り知れない。最後のボタンをかけ終えると、彼はそこから手を離さなかった。

「マルチェロ、様……?」

不思議に思ったクローディアは首を傾げた。すると、意外な言葉が耳に入ってきた。

「様をつけるな。クローディアは昔のように……、私に指導していたときのように、呼び捨てにしてくれ……」

言いながら彼はクローディアを懐に抱き寄せた。流石に予想外だったようで、彼女は目を丸くした。

「ま、マルチェロ……」

「すまない、クローディア。暫く、暫くこうさせてくれ……」

修道院内の最も敬愛していた、オディロ院長を失った今、彼の支えは今目の前の彼女だけとなった。他は彼の敵にもなり得る人物ばかりだ。今、彼の心は荒れに荒れている。彼女がここに居るからこそ、彼は弱い姿を見せられた。これが最後だと思って。

クローディアは、マルチェロの背に腕を回した。長い間感じることのできなかった人のぬくもりが、今ここにある。彼をこの手に抱くのはどのくらい久し振りだろう。あの小さかった少年は、もう居ない。今腕の中に居るのは、自分より大きく、そして孤独になってしまった一人の男。ここまで、人は成長するのだと、あの小さな少年は、我が身を覆うほど大きくなったのだと思うと、寂しくも嬉しく感じた。恋愛などしたことない彼女だが、今自分が彼に抱くモノが何なのか理解していた。だからこそ、彼にこれ以上負担をかけてはならないこともわかっていた。

彼から微かに血の臭いがするのがわかった。あの戦いの時の傷がまだ癒えてないのだろう。クローディアは、回復呪文を小声で詠唱し、彼にかけた。徐々に傷が癒えるものだ。

どのくらい時間が経ったのかわからなくなった頃。マルチェロの方からクローディアを離れさせた。どちらも名残惜しそうに見つめ合う。すると、マルチェロは間を置いて顔を寄せてきた。

「許せ、クローディア」

言い終えると同時に、顎に彼の手があてがわれた。次の瞬間には彼の顔が目の前にあった。唇が重なったことに気付くのは暫く立ってからだった。見開いた瞳も、すぐに閉じられる。しかし、軽く触れあうだけのもので終わらなかった。一瞬マルチェロが離れたかと思うと、無防備に開いた彼女の唇の中に舌を差し込んだ。更に、彼は後頭部も左手で抱き寄せてきたので、クローディアは激しい口付けに呼吸が上手くできず、彼に縋り付くような、もたれかかるような不安定な体勢になった。

苦しげな、それでいて甘い息づかいと声が、お互いの耳に響く。厚い胸板の上に置かれた細身の手指は、次第に青くシワ一つない衣服を強くも、弱々しげに震えながら掴んでいく。紺色のスカートのスリットから見える脚の震えは治ることを知らない。腰に添えられた右手は、いつの間にか怪しく腰から太ももをなぞっていた。

ようやくお互いの唇が離れたとき、銀の糸が間につながった。腰が抜けてしまった彼女は、彼の胸に飛び込む形で寄りかかってしまった。マルチェロの手でようやく立っているクローディア。彼女の悩ましげな顔には薄ら汗が滲んでおり、黄金色の髪が張り付いていた。紅い唇からは飲み込めなかった唾液が垂れていて、情欲をそそった。狙ってそのような表情を彼に見せているのではない。ただ、快楽に酔ってしまったのと、口付けで失われた酸素を取り込むことに必死な彼女はその他のことを考える余裕はない。

「はぁ、は……マルチェロ……」

「……クローディア」

今このまま二人だけで居れば、お互い後戻りできないところへ行ってしまう。お互いにそれはもう理解していた。

クローディアは乱れた髪を直し、床に落ちているローブを纏う。マルチェロも上着のシワを伸ばした。いつもの装いに戻った二人は、真剣な顔つきでお互いを見つめた。

「これからも、あの魔女を追うのか」

「そのつもりです」

「そうか……。恐らく、これから会うことは無いだろう」

「……そうですね」

そう言って、目を伏せる彼女。マルチェロはつい、足を踏み出し、彼女を抱きしめた。

「死ぬな、クローディア。そして、いつかまた私の元へ……」

「帰ってこい」と、耳元で彼はささやいた。その言葉に、彼女はハッとした。その言葉を言われたのはいつだったろうか。ふと、目から涙が零れ落ちた。

「はい……」

ほんの一瞬触れるだけの口付けを交わし、マルチェロは腕を放す。

「必ず、またいつか。あなたのもとへ戻ります」

一番美しい笑みを浮かべて、深く一礼して部屋を立ち去った。

マルチェロの部屋には、ただ彼女の残り香があるだけで、寂寥感が漂った。一人、デスクの上に頭を抱えて彼は涙した。これが、マルチェロが流した最後の情のある涙となった。

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