アーデルハイト

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ブルクハルト(Burkhard)、本名アーデルハイト・フォン・バイルシュミット(Adelheid feng Beilschmidt , 1765年9月1日 - 1792年1月7日)とは、ドイツ出身の音楽家、ピアニスト、ヴァイオリニスト。

基本情報
別名 詠臣
生誕 1765年9月1日
出身地 プロイセン王国、ケーニヒスベルク
死没 1792年1月7日(26歳没)
墓地 ヴェネツィア共和国、レニャーゴ
ジャンル 古典派音楽
活動 1775年 - 1792年

本来プロイセン王国に生誕した女子でありながら、性を偽り男子として伝わった作曲家。ブルクハルトは音楽家としての源氏名。

生涯
幼少の頃より、教養を重視する父と、嫋やかに育って欲しい母に育てられる。また、時期を同じくしてチェンバロ・声楽・ヴァイオリンの音楽教育を受け、神童と呼ばれたこともある。当時国内でも有数の力を持っていた父は、ウィーンの宮廷から休み時にアントニオ・サリエリを呼び出してアーデルハイトに音楽を教えさせたと言う。1767年から1774年までの7年間、王国の本家にてサリエリに師事。1775年春に神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世に招かれ、ウィーンの宮廷でヴァイオリンを披露する。以来ウィーンに留まり、幼子であることから可愛がられて過ごしていた為、作曲の知識を得る。同年秋に作曲を始め、面倒を見ていた侍従は驚き、教師であったサリエリに報告をしたと言う。サリエリはアーデルハイトの書いた楽譜を演奏した後、皇帝に「これはアーデルハイトの書いたものである」と申告し、翌年からはアーデルハイトも宮廷作曲家となった。この時の楽譜はアントニオ・サリエリの死後、彼の遺言によって、彼の骨と共に埋葬されている。題は「アッチェンデレ」(燃えよ)。

1778年5月、13歳の時にオペラ処女作「アガペーに献ぐ」を発表し注目を集めた。アリア(独唱)の多い演目であり、レチタティーヴォやアンサンブル(重唱)は少なかった。また伴奏があまりにも複雑であったことや、アリアの多さに比例した歌手にとっての難易度の高さが問題となり、たった一度の演奏でお蔵入りとなっている。同年11月には新たなオペラ「星繋ぎ」(原題:Stern Fl*gel)を完成させ、問題点を直した上でのお披露目となった。「アガペーに献ぐ」「星繋ぎ」を含め、音楽家人生17年の彼女の書いたオペラは24作にのぼる。

また、オペラを書き始めると同時にピアノ・ソロの作曲も始めており、ピアノのための「翼なき鳥による漣変奏曲」(ブルクハルト1番)が処女作とされている。

1791年、若くして結核を患い、病床に伏す。それ以前から時折意識を失うことがあったと師であったアントニオ・サリエリは日記に記している。また、交流のあったヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが死没したのもこの年であり、身近な友人の死が体調にも影響を及ぼしたと考えるのが妥当である。没年に書いた遺作「いだく明星の変奏曲」は弟弟子であるベートーヴェンが継いで完成させた。死没地は神聖ローマ帝国・ウィーン。彼女本人の遺言によって師であるサリエリの故郷に埋葬されている。

人間関係
兼ねてより交流のあったヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトによると、「人懐こい微笑みで僕を迎えてくれる翼の折れた天使」と書かれている。音楽の才だけで無く外見も良かった挙句、自分を魅せる技法を無意識のうちに身につけていた、とはサリエリの日記にある文である。26年という短い人生を駆け抜けた女性である為生前の知り合いが少なく、サリエリの取った弟弟子たちもベートーヴェン以外と対面したことはない。それゆえブルクハルトを語る際に頻繁に出てくるアントニオ・サリエリであるが、そこに肉体・精神関係はなく、彼女は独身を貫いて天へと還った。

後世での評価
生前こそ評価した音楽家は少なかったが、サリエリが死没10年後の1802年に「アッチェンデレ」を再演、一躍時の人となる。弟弟子であるリストやシューベルト、旧知であるモーツァルトの息子フランツなどはブルクハルトの曲を最初に教えられ、また覚えており、遺作を継いだベートーヴェンにもスポットが当たることとなった。特に当時人気だったブルクハルトのオペラは「鍵を閉めろ」であり、コミカルポップなメロディが伴奏に入れられた明るいものを好む客層が増加。それとは反対にオペラ「魔眼」で重苦しいメロディのアリアを演奏され、民衆にブルクハルトの音楽の才を披露することとなる。