ふるり、と雪が溶けるように緩やかに銀灰色のまつ毛を震わせる女が居る。
「……春奈ちゃん」
幾度目かの呼びかけの後、目の前で瞳の帳を下ろしている女――榎本春奈が目を開いた。わたしの呼びかけで急ぎ光を瞳に迎えたからか、眩しそうに瞬きを繰り返している。声は出ない。けれどもその唇が求むる言葉は読み取れた。『じんくん』。ただその四文字のみである。『じんくん』でないわたしが話し掛けてしまって申し訳ない。けれども嫌悪を表に出す性格ではないことを知っているから、常のように声を弾ませる。
「春奈ちゃん、こんな所で会うなんて奇遇だね? とりあえずそこの椅子、座ろっか」
苦しそうに、煩わしそうに瞳を閉じて壁に寄りかかっていた春奈ちゃんを、緩やかに導く。移動するのにかかる空気が触れてしまうとはいえ、線の細い春奈ちゃんが体を寄りかからせるのはほとんどの体を壁と触れているのと同義である。椅子に座る方がまだましになるだろう。
常のように、声を弾ませて、とは言えども、わたしにとっての常を春奈ちゃんがどう感じているのか、わたしは理解しうることは出来ない。それは恐らくこれからも同じで。尋ねてしまえばもうわたしは、春奈ちゃんを守ることが出来ないような錯覚を抱いている。一度、失敗してしまったから。次こそは。
「……羽純ちゃん」
「どうしたの、春奈ちゃん」
「ありがとう、ございます」
「どういたしまして、かな」
春奈ちゃんの背負っているサイドエフェクト、過剰感応。それはある人物の言葉を借りれば、所謂生き辛いサイドエフェクトだ。対してわたしが持つサイドエフェクトのひとつは、大気操作。誰だって人であるならば空を切り裂いたことはあろう。大気操作はそれをもっとずっと大きくしたものだ。根底にある動作は空を切るものと大して変わらない。故に空気をも過敏に感じ取ってしまう春奈ちゃんをそれから守る。空気からでさえも。それが『じんくん』からの頼みだったし、わたしとしても春奈ちゃんを守れるのなら本望である。
「ね、春奈ちゃん。ちょっとお話しよっか」
「お話、ですか?」
「そう、お話。……わたしの、後悔の話」
これも全部視えているだろう、『じんくん』のお話だ。
わたしは幼い頃、兄を奪われた。世界に。もしくはわたし自身に。ネイバーの存在に。連鎖するように両親の命も喪われた。兄を追いかけるように沈んだ両親の姿は思い起こせない。見たこともなかった。わたしは迅くんの前で涙を流してしまって。本当はいけないことと知りながら。協力者として迅くんと共同戦線を組んでいた筈なのに、涙を見せてしまったが故に、それは喪われてしまった。
「迅くんをすくい上げることが出来ない。それはあの人に助けられた、もしくはあの人の前で弱さを見せてしまった人間の宿命みたいなものなんだよ」
「……良く、分かります」
「春奈ちゃんもその一人だもんね。迅くんにとって、助けるって行為は呪いなんだよ。嫌でも取捨選択を強いられることになる。緑川や三輪先輩を見ていると分かるけど」
時折口を挟みたそうに唇を開ける春奈ちゃんに目を向ける。榎本春奈は迅悠一に助けられてしまった人間のうちの一人だ。常の人間が誰かを救うよりも、迅くんが誰かを救う方が、ずっとずっと、それは呪いになってしまう。だって迅くんには、視えてしまうから。
銀灰色の髪を撫でる。これは、わたしの、わたし個人の勝手な期待だ。
「迅くんに助けられた人間で、あなたが一番、迅くんに近いんだよ、春奈ちゃん」
「羽純、ちゃん?」
「わたしは、ずっと昔に諦めちゃったけど……。春奈ちゃんならきっと、あの人の辛さを、背負わせて貰えると思うから」
「そんな、私は」
「これはわたしの勝手な理想で、期待。わたしが出来なかったことを、手を伸ばせなかったことを春奈ちゃんに頼むのは、狡いと思うんだけど。……迅くんのこと、宜しく頼むね」
尚も言葉を重ねようとする春奈ちゃんの声を遮る。足音が聞こえればそれは迅くんのものであろうなと思いつつ振り向いて、答えを合わせるような軽い声に思わず一つ溜息を。
「ちょっと迅くん、視えてたなら――」
「羽純」
「……何?」
「ごめんな」
青いベストが揺れる。迅くんに謝って欲しかった訳ではない。ただ一度、幼い頃に。誰か、迅くんを助けて、と祈ったことがあって。祈りを今まで持ち続けていて。もしかしたら助けてくれるかもしれないという、女神様に出会ってしまっただけだ。席を立った春奈ちゃんに声をかけられて意識を戻す。
「あの、羽純ちゃん。ありがとうございました」
「こちらこそ。話に付き合わせちゃってごめんね」
迅くんの隣に立つ春奈ちゃんに収まりの良さを感じていた。ずっとこの人を誰か支えてくれと思っていたから、何だか嬉しくて、けれども複雑な気分。
「また会いに行くね、春奈ちゃん」
「え、あの、……はい。待っています」
雪が溶けるような春の暖かさを感じるのは、いつぶりだろう。