「指揮官」
 玄関で履き慣れないヒールのストラップと格闘していると、ちょうど武居くんが訓練から戻ってきたところと出くわした。
「星乃のパーティーか」
「うん、これから」
 アクの強い人たちばかりの相手を繰り返してきたとはいえ、いまだに得意にはなれない。リップサービスにも何重もの含みが忍び込まれている場所はとても息がしづらい。
「アンタぼやっとしてるからいつも付け込まれてるだろ」
「ぼやっとって……」
「今日のラッキーアイテムは」
 見てきたかのように言われるのは心外だと噛みつこうとした出鼻が折られる。
「腕時計、だったかも」
 毎朝欠かさず占いを見せられたり聞かされていたりしたらいつの間にか自分からチェックするようになってしまった、なんて言えないし言うつもりもないけれど。
「これ着けとけ」
 彼の手首から外される男物の腕時計。
「腕時計ならもう着けてるよ」
「いいから」
 腕を出せと主張する手の平におずおずと自分の手首を乗せる。そうてみると自分と武居くんのどこが違うかが際立って、何だか恥ずかしくなってきた。
「ほっせぇな」
「……試しに、とか言って折らないでよ」
「お望みなら折ってやろうか」
「冗談です」
 不自然に走った緊張を軽口でほぐしてみた。我ながら苦しまぎれの策を講じたものだと呆れた瞬間、皮膚が薄いところをかさついた指が掠める。 
「おい、もうとっくに着け終わってんぞ」
「っ、ごめん」
 たったそれだけ。皮膚と皮膚が触れ合っただけのことに動揺してしまった。
「帰ったら返すね」
「ん」
 いつもより重い手首に羞恥と安心を引き連れて一歩踏み出す。
「行ってきます」


「指揮官さん」
 会場の端っこの壁で一休みしていると挨拶が終わったのか御鷹くんが声をかけてくれる。
「お疲れですね」
「うーん……そうだね、少し」
 知り合いがいるというだけでこういう席は心強く感じるものだ。
「あれ、それって男物の腕時計ですよね。珍しい」
 隠しているわけでもなかったが、今まで言及されなかったそれは御鷹くんによって目敏く見つけられた。やはり浮いているようで、どうして付けろと強く彼が言ったのか真意を測れない。
「うん。武居くんが出るときに着けとけって」
「……なるほど」
 数秒前まで不思議そうにしていた顔から訳知り顔で御鷹くんが頷く。
「なるほどって?」
「えっと、今日はここで会った人と長く話しましたか?」
「そういえばそんなに話し込まないかも」
 以前同じようなパーティーに参加したときよりも表情筋を使ってない気がする。いいや、していない。いつも頬に地味に残る疲労が今日はほとんど感じられない。
「御守りの意味を果たしているようでよかったっす」
「御守り?」
「女性が男物の腕時計を着けてると男は寄ってこないんです」
「……?」
 謎かけをされているのか。頭の作りがこっちと違うのでもうちょっとお手やらかにお願いしたい、とは面と向かって言えなかった。
「……これは一孝も苦労するわけだ」
「……ごめん、詳細な説明がほしいです」
 更に謎が出てきそうだったので両の手を挙げる。ノンアルのせいで頭が回っていないのかもしれない。
「最近はファッションで男物の腕時計を着ける女性も増えてきましたが、この場では違う意味を持ちます」
「違う意味」
 ここは風習が古いですからねとホールを見ながら言った御鷹くんは言葉を続けてくれる。
「未婚の女性が男物の、それも腕時計をつけていると周りは『この女性はお付き合いしている男性がいるんだ』と見るんです」
 下世話ですが、とはにかんだ彼のグラスの中で氷が音を立てる。
「今指揮官さんはそういう風に見られているんですよ」


 夜も更けて静かな食堂を覗いてみる。この時間帯ともなればランニングが終わっていると思ったが、まだ帰ってきていないらしい。いなくてよかったと胸を撫で下ろす。御鷹くんからあの話を聞かされてからさほど時間は経っていなくて、今顔を合わせたら平静でいられる自信がなかった。
「よかった……」
「なにが」
「っ!」
 気配なく後ろから声が現れて、借りていた時計を危うく落としそうになる。
「何してんだ」
「これを、返しに」
「ん」
 動揺するこっちとは対照的に、何のことない表情で武居くんは手の中から抜き取っていく。翻弄されているのが悔しくて、そのくせさっきまで手首にあった安心感に縋っていたことを思い出して何も言えなくなる。
「おやすみなさい」
「おー、おやすみ」
「それと、その、」
 部屋に戻ろうとする彼のジャージを掴む。
「助かった。ありがとう」
 それだけを言い残して脱兎のごとく逃げ出す。
 ノンアルは抜けきってなかった。


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