「指揮官」
 波一つない静寂しじまがぐらぐらと揺さぶられる。もう少しだけと再び沈もうとすれば、更に遠慮がなくなってくる。
 こんな非道なことをするのはただ一人。
「……おはよう、武居くん」
 深夜のランニングから帰ってきたであろう武居くんがジャージ姿でこちらを見下ろしていた。
「もう夜中だけどな」
 こんな寒い夜にも走るとは精が出るものだと欠伸を噛み締めながら眠い目をこする。
「部屋で寝とけば」
「そうしたいのはやまやまなんだけど、今のでかなりの熟睡を得ちゃったからな……」
 それに締め切りが間近の書類を片付けてしまいたい。
 が、頭に残っている糖分はわずかとなっていて、このまま効率が悪い状態で作業をしても間に合うかどうか。こんな時に温かいココアでもあれば違ったかもしれない。
「ん」
 ことりとテーブルに置かれたマグカップ。湯気立つ中を覗けば、鉱物のホットココアが待っていた。
「それ好きだろ」
 誰かに好きだと明言したことはないのに。
 手の平に収まった温もりがじわじわと指先から体へと侵食していく。
「君はいい旦那さんになれそうだね」
 零した言葉とともに甘い水面みなもに息を吹きかけ、一口含む。舌に広がる程よい甘さに頷いていたが、あまりの静けさに意識を部屋に戻す。そこには武居君が椅子を引く途中で固まっていて、ばちりと目が合う。一体何があったのかと観察してみればいつもの鋭い視線はなく、ジト目がこちらを捉えていた。
「そういうの誰にでも言ってんのか」
 そういうの。
「……」
「……」
「……き」
「……」
「記憶にございません」
 可能なかぎり遡ってみたが、ポンコツ脳には何も残っていなかった。
「あっそ」
 どかりと椅子に座った表情からが幾分かトゲが消えたように見えて、強ばった肩から力が抜けた。
「ところで君こそ早く寝ないといけなんじゃ」
「俺がいなくなったらどーせアンタはここで寝るだろ」
「うぐっ」
 年下の男の子に一つも言い返せない自分が情けない。たしかに部屋に戻るのがめんどくさいと思って食堂で寝たことが何度かあった。日頃の行いを改めなければとペンを強く握る。
「早く寝かせてくれよ、指揮官サン」
「……善処シマス」
 いつもよりほんの少し賑やかな夜は更けていく。
 またこんな夜があってもいいあんと、忙しなく走る秒針に願った。


「なんてことがあったね」
「アンタは一切学習してねぇけどな」
「そういう君は成長したよ」
「どこが」
「前は毛布掛けてくれなかったから」
 実はあの時、暖房が切れていて肌寒かったのだが、今回は起きたときには既に毛布が肩にかかっていた。
「そんな前のことまだ覚えてたのか。忘れろ」
「私は忘れたくないな」
「忘れろ」
「却下」
 君といる時間を伸ばしている。聡い君は気づいているかもしれないのに、何も言わない。
 その優しさに甘えられる夜は残りわずか。