一夜

一夜――卯月


「千紘、この家の娘に会ってこい」
 父から乱雑に投げられた紙に書かれた家は、千紘が聞いたことのない名前だった。
 天音家。
 秘密主義と名高い天橋家の分家だろうか。それにしても、何故縁談を持ってきたのかが不思議だ。
「そこの家の娘は百夜通いとやらをやっているそうだ」
「……三日ではなく?」
 通例、というより一般常識として男性が女性の元へ三日間連続で通えば婚姻は成立する。
「百夜通った男でないと婿に迎えんらしい。まったく、選ぶのは女ではなく男であるのを弁えておらん。一体どんな面の厚さをしている女だか」
 尺で口元を隠してはいるが、父の声音に侮蔑の色が滲む。
「輝崎の名に泥で汚すなよ」
 輝崎の家は異母兄である蛍が継ぐことになっている。父は千紘に継がせたかったようだが、蛍の生母である正妻が自分の息子に、と抗議して折れたようだ。
 別にどちらが輝崎の家を継いでもいいのに、と蛍と苦笑いしながら話したのが思い出される。
 だからといって千紘が嫁をもらわない理由にはならない。
しかし、ここでとある問題が浮上する。
 千紘は女を好かない。父のように見下しているわけではない。寧ろ女性のおかげで今の自分たちがいられると考えている。強いて挙げるとするのなら、宮中の女房たちが好かないのだ。
 あわよくば玉の輿と、こちらの家の格と千紘の容貌しか見ていないのが透けている。
 それとあの香の匂いも好かない。一つの香りならまだしも、複数の香が絡み合ったあの得も言われぬ不快感が拭えない。
「何故この家にしたんですか」
 家の格で言ったら圧倒的に輝崎の家の方が高い。この矜持の高い父が、自分よりも格が低い家の娘を受け入れるとは到底思えない。
「あの家は金に困っているからな。金の話をちらつかせたら、ほいほいと娘を差し出してきよった。業突く張りめ」
 一体どちらが、だ。千紘は権力に妄執する父をあまり好きにはなれなかった。
「まあ、お前の女嫌いが治るまでだ。治らなくとも、九十九夜になったらさっさと切り上げてこい。結婚するなどと言い出されたらたまったもんじゃない」
 確かにそれは千紘にとっても困ったものだ。結婚してくれと言われて上手に断れる自信がなかった。
「お話、お引き受けします」



 牛車から見える殺風景にそろそろ飽きてきた。きりぎりすと蛙の音が聞こえるだけである。
「遠いな」
「まあ宮中辺りからは遠いですからね。それよりも十条の方にお屋敷があるなんて初めて知りました」
天音家の邸宅は、あまりの遠さに十条と名付けられたと噂される場所にある。牛飼いも足を運んだことがないようだ。
しばらく何も建造物がない道にぽつんと佇む小さな屋敷が見えてきた。あの家で間違いない。
「ここでいい。いつもありがとう。ゆっくり休んでくれ」
「いつ頃お戻りになりますか?」
「そこまで長居するつもりはない。野盗にだけは気を付けてくれよ」
「承知いたしました」
 踏み入れた庭は手入れされていて、荒廃した場所に生える植物に代表される蓬もそこまでしげっていない。
灯りが仄かに照らしている部屋が目に入ってくる。間取りとしてもあの周辺に噂の百夜通いの君がいるのだろう。
「初めまして。貴女が百夜通いの君で合っているか?」
 部屋の奥にわずかに人の気配が漂う。
「――巷ではそんな風に呼ばれているのですね」
 鈴を鳴らすような音色が千紘の鼓膜を揺らす。宮中にいる媚びへつらう猫撫で声とは大違いで、千紘の琴線が揺れる。
「貴方様が輝崎の御方ですね」
「……ああ」
「どうせ父が無理言ったのでしょう?」
「そんなことは」
 思わず食い気味に答えてしまう。
「輝崎さまはお優しいのですね」
()
「お話は聞いております。女性が嫌いなんでしょう?」
「……恥ずかしい限りで」
「恥ずかしがることですか?」
 ぱちりと
「人とは誰しも得手不得手がある生き物です。それが女性だっただけ」
 この通いの趣旨を理解しているように見受けられる。
(最初の方が警戒しているんじゃないかなと思われますよ)