人間と動物
人間と動物
ただ動物がキレイという訳でも無く、例えばライオンの子殺し等は徹底して利己的だからこその残虐性を感じる。
【ライオンは、平たく言うと戦ってハーレムの長となった時、前の長の子どもを皆殺しにします。理由は、自分の遺伝子を含む子どもではないから・子どもを持つ雌は発情しないから、です。この習性はクマ等でも見られます】
猫は生物を嬲り殺し、チンパンジー等も他の個体を虐め、レムールの群れでさえ仁義なき戦いを繰り広げる。
あまつさえ植物であっても昆虫を騙して花粉を運ばせ、果ては菌類だと昆虫の脳まで操ってしまう輩もおり……生物界には生物たちなりの裏切りや汚さ、騙し騙されの応酬がある。
ただ「生きるため」という目的からのその純粋さは、人と比べるべくもない美しさでもあると私は思う。
>愛とは
私は終ぞその様な乙女の抱くロマンチックなテーマについて考えてみたことも無く、何故ならば、愛を知るには愛を知らな過ぎたのです。
あぁ、しかしそれは、早過ぎた夜空とせめぎ合う夕陽の下、黒とも青とも、橙とも白とも取れる一瞬の波飛沫の色を、言い当てる様なものではないでしょうか。
だから、敢えて私はそれを陳腐に「空の色を映した波の色」で濃紺色だと語る様に、自分なりの考察を語りましょうや。
生物は、利己的であるとこの前も申しました。
自分が生き残る事が最優先ならば、なぜ働きバチは自分で子を産まずに女王バチの子育てをし続けるかという問いには、
「働きバチの子(自分の遺伝子50%)<女王バチの子(自分の遺伝子75%)」
という、より多く自分と同様の遺伝子を後世に残す確率の高い方を選んでいる……というのが、『利己的遺伝子論』です。
生物の究極かつ共通する命題は、生存と増殖に尽きるのですから。
そして、この理論からつまるところ、「生物は自己しか愛せないのでは」というのが私の暴論です。
利他的行動……相手に親切にするのも、自分に得になる可能性があるからやっているのでは、という事です。
何か人にモノをあげる人は、無意識でもお返しを期待しているかそれか、あげる事に自分への得があったからと考えられます。
従って愛の条件の一つは、「他人を自分事と錯覚する」事なのではと私は考えます。
相手の幸せは、自分の幸せなのです。
それならば、子どもを自分の代わりに自分の夢を叶えさせるのも愛とされてしまいますが……第二の条件と思われる「相手の肯定」より、それは否定されます。
「愛の反対は無関心」という言葉からも想定される通り、愛とは執着であるのでしょう。
上記の、子を自分の代わりとする親の場合、本気で子どもがその大学なりに入学する事が幸せと考えるのならば、第一条件を満たしたものではあるとは思います。
しかし、それを愛と呼ぶにはあまりに独りよがりであるのです。
少し調べた脳科学では、愛でも相手を脳内でシミュレートする様な場所が活性化する等とありました(学術的な論文ではないので要検証)。
つまり、「相手の肯定」……相手の自分との違いを明確に認める必要があるのではないでしょうか。
そして、自分は愛する相手のファンなのです。
これを踏まえると、親は子どもの感情や人格を認めているのか否かによって愛か否かが判断されるのではと考えられます。
これは、ロゼリィの言う「相手をあるがままに受け入れる」とほぼ同義でしょう。
私は、基本的にはロゼリィの愛は真に近いものと受け取りました。
ただ、私は双方向である必要は無いとは思います……長期的な視点を抜けば、愛はあくまで個人の感情であり、必ずしも相手からの返信は必要無いと思います。
ロゼリィはその後に「本当に愛し合っている二人を見てみたい」とも言っており、つまりは双方向の「愛」の結果である「愛し合う」という現象に執着していると言うことなのかと思います。
それは、子実体のみを指してキノコと呼ぶ(実は、胞子や菌糸の状態でもキノコである)に等しい行為ではありますが、愛を抱けないならば寧ろそれは至極真っ当で、人間とは比べ物にならない位の実直さを感じます。
決まった何かを持たない人間は誠実にも嘘つきにも、頑固にも移り気にも見えるでしょう。それは、その一瞬一瞬では確かに正しくそうあるのです。
そして、人間は他人にそうした純粋な愛だけを抱く事は難しい……夫婦という互助関係、仲間という信頼関係、利害関係とは無関係では生きていられないからです。
60話で裏切られたとルテミス達が感じ、愛が無くなったのは、愛の土台となっていた信頼を、期待を裏切られたからでしょう。
本当に愛する事ができるのは、そう、皮肉にもペットの様な存在だけなのかも知れません。
余談ですが、猫が死んで後悔する怜苑よりも、愛する者の死を受け入れるロゼリィの考え方の方が、私は分かりやすいですね。
慈悲も、自分から切り出す部分が多いのならその一瞬だけなら愛にも見えるでしょう。
ただそれが愛とは呼ばれないのは、愛はそうしたものの最上級で、自分の次に優先されるものであるという感情が長続きする状態を指すといった認識があるからではと思います。
それは、ロゼリィの言う愛とは外れますが、人間はそうでもしないと相手の気持ちを測れない鈍感な生物なのでしょう。
双方を愛とは呼びますが、私にとっては人から与えられる愛と、自分から与える愛とは全く違うものなのです。
愛とは、目に見えない感情の一つでありながらも、人間の脳には確かに愛と呼ばれる反応が起きているのです。
もしかすると、古来より群れの生物として生活してきた人間が生き残る為に、怒りや悲しみといった自身さえ揺さぶるコミュニケーションツールの一つに、愛があったのやもしれません。
相手を愛する事が多くの人に可能ならば、愛する人こそが生き残りやすかったと言う事実に他なりません。
この「自己を愛し」つつ、「他者を受け入れる」視点も大きな矛盾を抱えています。だからこそ、純粋に愛する事の困難さや、人によって愛するという答が変わってくるのかしら……。
と、ここまで自論を展開しましたが、それも昨日今日で考えたとても浅いものでもあります。
次第に日が暮れる様に、何度も波が打ち寄せる様に、私にとっての結論は容易く揺らぐもの……強いて言えば、結論が揺らぐのでは無く、私が揺らいでしまうのです。
それは、私と認識するものは肉体に操られる精神の、そのまた小さな心でしか無いからでしょうか。
ラムズ、貴方は「自分の意思だけで生きられるのなんて、結局人間しかいねえんだよ」(「責任の所在」より)と言いますが、その人間の意思だって、自分の生存と増殖の二の次にされている残りカスみたいなものだと、私は考えているのです。
ただ、そうあれかしとされた使族よりも、自由で不自由な部分はあるのでしょうが。
普段より冗長となり、詰まらない文章かも知れない事をお許し下さい。
後で訂正したくなる気がします……。
それと、また人間で気になった事が出来たらどうぞ……あくまで個人の見解ですが! ですが!