ふわり、と新しい畳の匂いが香る。どこか懐かしい臭いに意識を持ち上げると、燦々と輝く太陽の光が目蓋を刺した。障子の僅かに開けられた隙間から、陽の光が漏れているらしい。その向こう側に人の気配を感じるため、恐らく見張りの為に開けられているのだろう。狛治はそこまでぼんやりと考えて、首を捻った。自分が、そのようなことをされている理由が分からない。
 よくよく見渡してみれば、この落ち着いた八畳間も、道場のものでは無いようだ。完全に、狛治の知らない場所だと断定できる。
(何故、)
 自分はここにいるのか、とただ思う。直前まで自分は、墓参りに出ていた筈なのだ。何が起こって、道場ではない屋敷の布団に寝かされているのか。分からない。思い出せない。焦りを覚え始めたときには、狛治の頭はズキズキと痛んでいた。
 様々な憶測が痛む頭の中を飛び交っていく。心配事はいくらでも湧いて出て来るのに、狛治の頭は墓参りからあとの事を思い出すつもりは無いらしい。墓参りを終えて帰ろうとした所から、ぱったりと記憶が途切れてしまっている。必死に思い返そうと頭を押さえていると、カタ、と軽い音がして、障子の先にいた見張りと思われた男の姿が露になった。見たこともないような黒い服の前をはだけさせた、傷だらけの男だった。

「…あの、」
 上背はあまり変わらないだろうか。自分よりも歳上らしきその男は、何故か僅かにも動かなかった。男は障子をガラリと無造作に開けて立ち尽くし、頭を押さえる狛治をただ睨め付ける。何かしただろうか、初対面だと思うのに、と奇妙な沈黙に耐えられなくなって狛治が声を掛けると、男は小さく唸って、徐に刀へと手を掛けた。
 狛治が目を見開いて後退るのと、その男が刀を抜くのは殆ど同時だった、まさか隣の剣術道場の門下生だろうかと頭をよぎるのも束の間、しかしその刀は狛治に向けられることはなく、男本人へと刃を剥いた。
「なっ…」
 刃は躊躇われる事無く男の腕を切り付ける。浅い傷ではない。見る見るうちに血が溢れだして、畳を濡らしていく。
「何をしてるんですか!」
 狛治はパッと走り出して、男の腕を取った。傷の手当てを、と懐から手拭いを取り出す。すると、血に濡れた腕にそれを巻き付けていると、それを呆けたようにじっと見つめていた男が、小さく口を開いた。
「………テメェは、鬼じゃねェのか」
「え…」
「俺の血が反応し無かった鬼は、今までに一匹も居ねェ」
 沈黙が流れる。男は少しばかり目を細めて、障子から漏れる太陽の光で照らされた狛治を──その瞳と手先をちらりと見た。特に、それらに一般の人間と違うものは見られない。当然だ。狛治は人間なのだから。
「信じられねぇが、テメェは上弦の参じゃねぇ、そうだな?」
「鬼というのが何かは分かりませんが…はい。俺は罪人でこそあれ、人間ではあります」
 開いたままの瞳孔を見つめ返して、困惑のままに狛治は言う。袖から覗く数本の入墨は、唯一の狛治と猗窩座が持つ類似点だ。
「罪人ってのはどういう意味だ?」
「そのままですよ。入墨を見れば分かるでしょう、ほら」
 狛治が見えやすいように腕を巻くってみせても、男からの反応は薄かった。僅かに首を捻るだけ。珍しい反応だと思った。大抵の人は、見る目を変えるか、距離を置こうとするものだ。首を捻り返すと、男はじっと考え込んで、言った。
「…今の年号は何だ」
 変なことを聞くものだ。正直に言って、狛治は年号などしっかりとは覚えていなかった。少し前までその日の生活も危うかったためだ。その旨を男に伝えると、男は間髪いれずに、この場所に来る前の狛治の生活や行いを聞いてくる。その全てに答えたとき、男は苦虫を噛んだような顔をしてため息をついていた。
「成る程なァ…クソ、意味が分からねェ」
「それは此方もですが…。ここがどこで、あなたが誰なのか、教えて下さいませんか」
 狛治がそう返すと、男は意外にも素直に、ここが彼の所属する“キサツタイ“の協力者の家であり、狛治が怪我人として運ばれていたと明かした。拍子抜けだ。簡単には教えてくれないと思っていたのに。或いは何か、実弥と名乗った彼に心変わりがあったのかも知れなかった。そうだとするならばそれはやはり、鬼が関係しているのだろう。すべてを明かしているという訳ではないだろうが。
「俺は、これからどうなるんですか」
「これから、テメェと…一緒にいた二人の男についての会議がある。テメェの処遇は、お館様が決められる」
 お館様。名称からして、余程偉い人なのだろう。小さく反芻すると、実弥は立ち上がって1歩、廊下へと進んだ。振り替えって、ただ一言、来い、と言う。どこへと聞くと、「言っただろォ、会議だ」と短く返してきた。俺はそれを引き止める。
「待って下さい」
「あァ?」
「布団を畳まなくては。それに、畳に血がついてしまった事を、言っておいた方が良い」
「あァ………伝えておく。布団を畳むなら、早く畳めェ」
 呆れたような目をして、実弥は言った。そこに、最初のような険悪さは、殆ど無いように思えた。
(…恋雪さん)
 今どうしているのだろう。病気はやっていないだろうか。中々報告から帰ってこない俺を、心配しているだろう。このよく分からない面倒事を終わらせて早く帰りたい。廊下をぎしりと歪ませながら、狛治は強くそう願った。

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