漢字ふりがな 最終選別で会った奇妙な鬼の言葉を、錆兎が忘れたことはない。初めて邂逅した自我を持つ鬼は、意味の分からない事をまくし立て、一人で満足し、錆兎を生かしてそのまま去った。

 ──赤く血の飛び散った着物を纏い、血に塗れた牙を剥き出しにしたまま。

 待っているのは死だけだと、目を歪めて笑ったあの鬼には、自我はあったが理性は無かった。いつ殺しにかかってきてもおかしくない。そんな雰囲気を常に漂わせ、そして鬼は話を誘ってくるのだ。

 不気味なこと、この上ない。錆兎が鬼の言葉に耳を貸したのは、一重にそうしなければ殺される可能性が高かったからだ。

 錆兎では、それこそ唯唯無駄死にするだけ。何故最終選別にハッキリとした自我を持つような鬼が居るのかは分からないが、それを気にしている余裕もなかった。この試験が死と隣り合わせだと言うことを思い知らせるような存在感を持って、錆兎は戦わぬまま敗北を悟らせた。

 そのような敵を、何故忘れることが出来るだろうか。

 鱗滝さんの元へ戻りまずしたことはあの鬼が語ったことの記録だ。一言一句忘れてなるものかと、筆を手に取り、身体を休める事もせずに紙へ向かった。いつかあの鬼を倒す。探し出して目的を吐かさせてやる。錆兎は一人そう決意し、任務先では度々それらしい鬼を探していたものだった。

 しかし何の手がかりも見つからず、鬼の戯言だと捨てきる事も出来ないままに時は来た。錆兎が下手を打ち負った大怪我を療養している間に柱となった義勇が語る同僚の名前はかつて聞かされたものそのままだ。新しくできた弟弟子の名前も、弟弟子が連れる鬼の名も。全てが、合致していた。


(今日、ここで、明らかにする)


 私服を着たまま、偶然を装って炎柱の居る汽車へと乗り込んだ。煉獄はすぐ見つかった。錆兎は彼の食事が大変賑やかな事を知っていたから、見つけるのは容易だった。その横に自分の弟弟子が居たことには驚いたが、何とか動揺を隠し知らぬふりをして時を待った。

──そして。

 

 太陽から逃げ去った上弦の参の背を、誰も追うことができなかった。いくつもの臓器を損傷し目を潰された煉獄は勿論、途中から加勢に入った錆兎も、主要な骨を幾つか折られ鬼を追うことができるような体ではなくなっていた。いつもなら真っ先に追いそうな伊之助も、座り込んだままだった。

 朝日が、昇る。山々の間がらゆっくりと姿を表す太陽が、ボロボロの錆兎達を照らしていた。

(──終わった…のか…?)

 日の光を受けながら呆然と思う。あの嵐のように訪れて大怪我を負わされた上弦の参が姿を消した事が未だに信じられなかった。それほどまでの強さ。それほどまでの、恐れ。足を引きずって、錆兎は静かに立ち上がる。
 

 森の入り口に程近い木にもたれ掛かり錆兎は小さく嘆息した。…最終選別に現れたあの鬼は、ついぞ現れることは無かった。藤襲山の特性を考えれば出てこられないのはごく自然のことではあるが、発言からして、腑に落ちない。錆兎の疑問は募るばかりであった。

 錆兎は座り込んで、あの思わせ振りな言葉を回想し目を伏せる。そんな彼を、誰かが覗きこんだ。

 視線が、合う

「錆兎君今、もしかして私のことを考えてくれた?嬉しいなぁ、覚えてたんだね」

「──っ!!?」

 何時の間に現れたのか。錆兎が思い描いていたままの姿の女鬼が、色の塗られていない白の番傘をさしてそこに立っていた。光を呑み込んだような黒の瞳に、感情の伴わない頬だけの笑み。かつてと、何ら代わりがない。立ち上がろうとした錆兎を、しかし女鬼はにやにやと笑い手で制した。場に、緊張が走る。

「やめときなよ錆兎君。その怪我で動いたら人間は壊れるよ?そんな無駄なこと、しないでいいと思わない?」

「…どういう意味だ」

「そのままだよ。私は今君を害するつもりは無いんだから」 

 女鬼は眼を細めた。片手で番傘をくるくると回し、日の届かないギリギリのところで上からの木漏れ日を防いでいる。その姿はいっそ美しくもあったが、錆兎は、それに猛烈な違和感を感じていた。だが、それがなにか、分からない。

「何が目的だ」

「言ったじゃない。私の言葉は未来だよ。だから、狂いがないか確認しに来ただけ」

「………貴様の、思う通りになっただろう」 

 唸るような錆兎の言葉に、鬼はただ笑うだけだ。相変わらず、よく分からない鬼だった。 

「うーん、そうだね…」

 そう呟いた鬼はおもむろにくるくると回していた傘を止め、錆兎から一歩距離をとった。伊之助が日輪刀を構え突っ込んできたからだ。彼女はそれを笑顔のまま軽く掴む。

「嬉しかったよ。忘れられてないみたいで」

 捕まれた伊之助の刀の、彼女に捕まれた部分がサラサラと消滅していく。その様子に、錆兎と煉獄は目を見開いた。

 まさかこの鬼は日輪刀を、血鬼術で消滅させたのか。 

「でも…あれ、何だったかな。私、何でこんなことしたんだっけ?」
 
 忘れちゃった。そう女鬼は呟いて、ひとつ瞬きをする。

「まあ、いいや。確認は出来たからさ、私帰るね?傘持ってるけどさ、そろそろ限界かなぁ」

「貴様、」

「じゃあね錆兎君。ふふ、また会えるのを楽しみにしてるよ」

 
 バイバイ、といつかと同じ様に女鬼は軽く手を振って、するりと姿を消す。錆兎はそれを見ていることしかできない。あのときとは違う。女鬼に気圧されるような事も無くなった。今万全の状態でやつと相対すれば、恐らく錆兎は勝つことができるだろう。──しかし。

 あの何を考えているのか分からない淀んだ瞳が、未来を知っている不確かさが、かの鬼を取り巻く不気味さが、立ち竦んだ錆兎を苛む。

 
 結局、あの鬼の言う通りだ。錆兎は列車に乗り込み、煉獄を、弟弟子たちを救った。

 また会えるのを楽しみにしてるというのが言葉だけなのか、それとも実際に会うと未来を見ているのか。錆兎には分からない。鬼の心など、有る筈もないのだから。


 次会うときが、きっと決着の場なのだ。



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