藤邸。
 町と言うには少し小さい、だが村と言うには栄えている。文明開化に伴って電線が通り、店棚に目新しい外つ国の商品が少しばかり並ぶものの、その基盤となる生活は街の人々のようには変わることの無かったような集落のはずれの、その奥にある細い山道をたどった先に、その家はある。その名の通り、年中咲き誇る藤の花々に囲まれた、古風な平邸だ。
 近付いてみれば限りなく目を奪おうとするその荘厳な様は、しかし麓の集落からは見えぬよう器用に隠されている。さほど山深くに位置するわけでも無いというのに、ひっそりと知る人のみが訪れる特殊な邸であった。
 藤の匂いを頼りに近付く、鬼殺を行うもののみが近づけるよう、細工された邸。その主は、そんなことはとうに忘れて、しかし今日も客人を待っている。

 祖国たる、日本は。



藤の枯れ行くは、




「本当に、此方で宜しいのですか」
 少し包帯を残した男が、年端もいかぬ少年にそう問いかけた。男は羽織の下に隠された刀に油断なく左手を置き、眼前に広がる森を睨め付けている。少年は小さく苦笑した。この男を選んだ所以ではあるが、まだ日も落ちないこの快晴の空の下でも、男は警戒心を解かないらしい。
「ああ、その筈だよ」
 薄ぼんやりと漂う藤の香りを捕まえれば、たどり着くのはすぐだ。そう口に出している間に、優しげにこの場所について話す父の顔がふと脳裏に浮かんだ。教えられた通りにすぅと息を吸えば、うっすらとした藤の香りが鼻をつく。なるほど、これは、知らなければたどり着くことは出来ない。少年は静かに足を、森の中へと進ませる。
「実弥。警戒を解いて欲しい。此の方は殺気に敏感だと聞くから」
「しかし…」
「分かっているよ。ここは、何処か世離れしたような気配がする。でも、心配は要らない」
 彼の方はそういうお方だ。少年は護衛である男に視線を向けながら言う。膝をついた男は、ゆっくりと瞼を閉じて、了承の意を示した。恐らく、先代を…少年の父を、思い起こしているのだろう。
おもむろに男は刀からその包帯だらけの手を離し、指の欠けた右手の側へと向きを変える。
「ありがとう、実弥」
 少年はそれらしく微笑んで、前へ向き直る。少年…産屋敷輝利哉は、今日、正式に“お館様“になる。


 無惨との戦いは、炭治郎と無惨の相撃ちという形で幕を閉じた。柱の生存者は腕を失った義勇と実弥のみ。鬼殺隊は決戦に参加した隊員の9割以上を失う事になった。…その多くは、無限城内部に取り込まれ遺体すら発見されていない。残されたのは不思議と内容の似通う、たくさんの遺書達だけだ。
 輝哉のように、その一人一人を覚え、祈ることが出来れば、どんなに良かっただろうかと、よく思う。それは輝利哉には、もう追えない背中の記憶だった。
 鬼は倒された。もういない。鬼を滅した者も、滅された鬼も、その殆どが、一緒になって消えてしまった。1000年以上もある戦いの歴史の終結は、とてもあっけないものだった。彼らは歴史に名を刻むことなく、きっとこれから人の記憶の中でさえ風化していく。だからせめて、自身の記憶にだけでも留めようとしたのが、先代達なのだ。輝利哉は最近になってようやく、漠然とその先を考え始めている。
 鬼殺隊は、もう必要がない組織だ。そう断定できるまでに、一年もの時間がかかった。津々浦々に至るまでを調べつくし、その全ては無惨と共に消えたということが証明されたとき、鬼殺隊は終わった。残ってくれた隊員達も、そこでしばらくを過ごせるだけの金を携えて光の当たる世界へ戻っていった。数人の、例外はあるものの。
「お館様、足元にお気をつけ下さい」
その例外の一人は、実弥だ。彼は道の小さな出っ張りを指して言った。先導するのは輝利哉だ。実弥と同じように、輝利哉もまたここへ来るのは初めてだったが、ふわりと漂う藤の香りに誘われているように、その足取りは迷い無い。実弥はそれを少しならず不思議に思っていた。そこに疑問が混じらないのはその性根故だろう。黙々と、二人は山道を歩く。
 もうすぐだ。小さく溢した言葉に呼応するかのように、周囲は次第に明るくなって行く。そして程無くして、日の光が降り注ぐ森の中の開けた空間に輝利哉と実弥はたどり着いた。
 平屋建ての日本家屋だ。実弥には、その屋敷は突如現れたように見えてならなかった。その直前まで影も形も無かった生活感のある一戸建てが、ぱっと視界に表れたのだ。太陽の光の中での、血鬼術のような現象は、実弥の目にには酷くアンバランスに写った。だが警戒心は、不思議と沸かない。
「ここが…」
「ああ。ここが、藤の家紋の家の元となった場所、藤邸だよ」
 輝利哉は一歩進んでそう答えた。家を取り巻く不可思議な雰囲気はそのままに、そこは何となく人を安心させるような暖かな空気を漂わせていた。包まれるような、安心感。それは、今はもう居ない母の温もりのようなものだった。
「おや」
 実弥が立ち止まる。艶のある低めの声が、撫でるように鼓膜を打った。何故気付かなかったのか、その声の主は扉をあけてこちらを見ていた。不躾なものではない。子を見守る親のような柔らかい視線に、敵意は感じられなかった。
「は…」
「お客様とは珍しい。鬼狩りの方々ですね?お待ちしておりました。どうぞ中へ」
 男は半身になって中を示し、踵を返して邸の中へ入っていった。実弥と輝利哉は、無言で顔を合わせる。輝利哉が深く頷いたのを見て、実弥も刀へ触れようとしていた手を戻し、後へ続いた。藤の香りは、いつの間にか消えていた。


 男は実弥と輝利哉を座らせて、物言いたげな実弥をよそに対面側へと座した。その様子を見て輝利哉は静かに礼を言い、そしておもむろに頭を下げた。
「お初にお目にかかります。新しくお館様の名を継ぐ、産屋敷輝利哉です。こちらは、護衛の実弥。当代の風柱です」
「これはご丁寧に。……しかしそうですか。もうそんな月日が…。輝哉くんは亡くなられたのですね」
「はい。先代は一年前に亡くなりました」
 男はそうですか、と頷いて、黙祷を捧げるように少しの間眼を閉じた。この男はいったい誰なのかという今更な疑問が実弥の脳内を掠める。しかし疑問を挟む余地は無い。思考を打ち切ったとき、男はもう元の表情に戻っていた。
「輝利哉くん。鬼舞辻は既に倒されたのでしょう。それでも、君は“お館様“になるのですか」
男がそう口にする。来た、と輝利哉は思った。
「はい。無惨を倒してから一年の間、ずっと考えていました。…鬼殺隊を、どうするのか」
 千年の歴史を背負った組織を解体する、というのは、たとえ目的を果たしたとしても、重いものだ。その双肩にかかる重みについて、一年間輝利哉は考え続けていた。目的を果たした組織。表に出せない記録。隊員達はほぼ居なくなった。その組織を今後、どうするのがよいのか。歴史は、重い。
「鬼殺隊の記録を、表に出すことは出来ません。…それでも、悲願の為に散っていった隊員達の事を、せめて私だけでも、弔い続けたいのです。私は、最後の戦いで散っていった人たちの事を、何も知らないから」
 輝利哉は柱たちのことでさえ録に知らなかった。だが、あの地獄のような決戦を、輝利哉は見た。姉に諭され、師に導かれ。掴み取った平和の過程を、輝利哉は少ししか知らないけれど、長くなった残りすべての寿命をそれに費やす事に、躊躇はない。
「鬼舞辻無惨は死にました。一族の呪いも、解けました。貴方に会う“お館様“は、私が最後です」
 鬼に狙われるからと藤の囲いのなかで常をすごし、仕事のあるときだけ街へ下る、という不自由な生活は、終わる。輝利哉は、再び頭を下げた。
「鬼はもう、居ません」
 場を、静寂が満たす。張り詰めたような沈黙を壊すように、男は茶をすすって口を開いた。目が細められる。
「…千年です。鬼舞辻が現れてから、私が産屋敷の若い家長に初めて会ってから、千年もの月日が過ぎました」
「は…?」
 実弥の口から疑問の声が漏れでる。意図しない吐息を発した実弥を、男は変わらぬ表情でちらと見遣った。
「ふふ…、輝利哉くん。これがどれだけ凄まじい事か分かりますか?千年です。これだけ生きてきた私でも、長いと思う年月です」
「…はい」
「本当に、本当に長かった。貴方方には、感謝してもしきれませんね」
 ゆるりと男は頭を振った。実弥と輝利哉、一人一人に目を合わせて、男は静かに頭を下げる。
「ありがとうございます。お疲れ様でした。産屋敷一族、また鬼殺隊に、感謝を」



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