輝利哉はその後、慌てて男に頭をあげさせ邸を出た。名残惜しそうにまたお越しくださいと頬笑む男を一度だけ振り返り、首を横に振って同じく微笑みで返す。結局、実弥は何も知らされないままに、たった一刻の任務は終わったのだ。男の名前すらも、実弥は知らない。
「結局、あの男は何者なのですか」
 元来た山道を下りながら、実弥はそう尋ねる。来訪時よりも濃く感じる藤の香りを背に、輝利哉は少しだけ、微笑んでいた。
「此の方は、…そうだね。鬼殺隊の最も古い協力者であり、唯一“お館様“を覚えて下さる人であり…長い間、私達を見守って下さったお方だよ」
 産屋敷家の当主に、乃ちお館様になる者はみな、一度だけここを訪れる。そうして初めて、お館様になったと言えるのだ、と輝利哉は語った。そして、鬼がもう居ないことを伝えたかったから、自分は少し遅くしたんだと付け加える。一年間遅れたのは私だけだろうね、とも。
 真意を読もうと微かに顔をしかめる実弥の姿が、輝利哉には見えたような気がした。少し意地悪が過ぎたかもしれない。輝利哉は振り返って、笑顔で「此の方は祖国…この国の化身だよ」とだけ言った。それ以降は、実弥に話しかけることをしなかった。

「ああ、そうだ。これからのことを、はっきりと口にしたことは無かったね」
 新しく作られた屋敷に着くその寸前に、輝利哉は思い出したかのように呟いた。無惨を倒す、以外に掲げられたことは無いものの、歴代の“お館様“が定めてきた、その人生を賭するもの。祖国の前で宣言をしようと思っていたのに、忘れてしまっていた。
「実弥、今近くにいるのは君だけだ。是非、聞き届けてくれ」
輝利哉は静かに息を吸った。
「私は、再び祖国へと会いに行く。“お館様“としてではなく、ただの産屋敷輝利哉として。もう、ほんの少しの年月で次世代に訪ねさせる時代は終わったのだと、祖国へ知らせるんだ。」
 それが、私の目標だ、と微笑む。その姿は、何処か先代の輝哉に似ていた。だが、違う。輝利哉の中には、鬼への憎しみは見られない。実弥は少しの間目を伏せて、
「次の“お館様“は、きっといつもより年寄りですね」
と言った。






 狭い獣道に薄く視界を照らす木漏れ日。ふわりと漂う藤の香り。かつてあった麓の村は町へと変貌を遂げ、人々の纏う物も考えることもすっかり変わってしまったのに、ここだけは変わらないなと日本は少し懐かしい気分になった。
 不思議なものだ。ここには数百年もの間住んでいたというのに、たった百年の都会暮らしで懐かしいものに思えてくるのだから。それだけこの数十年が激動の時代だったということではあるが、それでも少し驚きだった。
 やがて見えてきた邸は、特に崩れた形跡などもなく、嘗ての様相を留めていた。大方、国としての時間感覚に引摺られたのだろう。日本は振り返って同行者に到着の意を告げた。イタリアとドイツだ。偶然日本がこの場所を訪れると決めていた日に、彼らは日本の元へ来訪し、折角だからと同行していた。
「ヴェ〜。日本、ここは日本のお家なの?」
「ええ、そうですよ。大正…おおよそ百年前まで私が過ごしていた場所です」
「意外だな。その時分には東京…江戸か?そこに住んでいたものだと思っていた」
「公務を行う際は江戸なり東京なりに行っていましたが、私の身の安全の為に基本はこの場所にいたんですよ」
 扉には鍵もなく、通常設ける塀も無いのに、どういうことだろうか、とドイツが思案している間に、日本は無言で邸の扉を開けた。
「どうぞお入り下さい。ふふ、こうやってこの家に人を迎えるのは久し振りです」
 イタリアとドイツは顔を見合わせた。彼らが知っている日本のものより少し、その笑顔は柔らかものだったからだ。
 予想通り中は埃が敷積もり、とても靴を脱いで歩けるような場所ではなかった。前以て用意したマスクを着けて、土足のまま上がり込む。
「そういえば、今日は何をしにここに来たんだ?」
 埃をたて過ぎないよう気を付けて足を動かすドイツが、日本にそう尋ねる。そういえば聞いてなかったねとイタリアも同調し、何となしに側にあった襖を開ける。
「ああ、そうですね。忘れ物を取りに来たんですよ」
「百年前の忘れ物か…どんなものなんだ?」
「百年も忘れるなんて、日本、意外とおっちょこちょいだね」
 日本はふと優しく笑って、イタリアの開けた襖を覗く。ああ、ここですねと小さく呟いて、埃の積もった押し入れの中に腕を差し込んだ。そして、黒光りするそれを取り出す。
「わぁ!日本のトコの剣だよね、こんなところにも置いてたの?」
「ええ、百年以上前に頂いたもので、すっかり忘れていまして。日輪刀、というものです」
 力を込めて刀を鞘から出すと、案の定それは少し錆び付いて居た。しかし、結局一度も使われることの無かったその刀身は、何処か輝いているようにも見えた。忘れていた、その事実こそが、平和の証だ。
 思えば、藤の香りも、少し柔らかなものになっているかもしれない。故意に一年中狂い咲かせていた藤の花はもう落ち着いて、旬の時季に少し長く咲かせるのみになっていた。
「平和に、なったものですね…」
開け放たれた玄関から、埃を舞わせて一陣の風が吹く。この邸はもう、客人を望んでいないのだろう。黒い詰め襟も、覚悟の眼をした幼子も、もうこの家を訪れる事がないのだから。

 鬼はもう、居ない。


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