とくべつ
今の会社に新卒で就職して丸2年。会議やセミナー、イベントなどの運営に携わるこの仕事も、少しずつ慣れてきたころ。恋人が出演するイベントの運営に、一端ではあるがうちの会社が関わると知ったのは2ヶ月ほど前だ。そして今日は、その2日目にして最終日。
運営のメインですらない企業のいち社員が、演者と関わる機会などほとんど無く、少し話すことさえ叶わなかった。それは残念ではあったが、イベント自体は無事大盛況に終わった。
どの部も、とりわけ大きなミスもなく、笑顔で帰るお客さんをモニター越しに眺め、しばし先輩と一緒に達成感に浸る。そういえば、と先輩が口を開いた。
「最近なかなか動けるようになってきたんじゃない?」
「えっ、本当ですか!」
入社当時から面倒見てくれている先輩の褒め言葉に、嬉しさで思わず声が明るくなる。
「今回は特に楽しそうに仕事してるように見えたかな。この調子で頑張れ」
「はい、頑張ります」
確かに彼の出るイベントだという事に喜んでいたので、私情を挟んでしまっただろうかとドキリとするが、今回はそれがプラスに働いていたようで安堵する。しかし、そこで仕事への態度に差が出ていてはいけないと気を引き締め直し、片付けに向かう先輩を追いかけた。
* * * * *
「ただいまあ」
気の抜けた自分の声が部屋に落ちる。
イベント自体が遅くまであったため、なかなかの時間になってしまった。私はあまり片付けが長引かなかったが、きっとまだ残っている会社もあるのだろう。修功くんも楽屋に集まってみんなと話をしていたからまだ会場にいるのかもしれない。
手を洗って荷物を片付けていると、リビングのテーブルに置いたスマホのバイブがなった。見てみると、修功くんからのLINE。
『もう先に帰ったよね?』
『今から少しそっち寄ってもいい?』
もうこんな時間だからまさかうちに来るとは思っていなくて少し驚いてしまう。
『少し前に家に着いたところ』
『全然かまわないよ』
それだけ返して部屋を見渡す。散らかってはいないから急に来られても問題は無いが、いつまでたってもそわそわしてしまう。
テーブルを少し綺麗にして、スマホを触りながら待っているとインターホンが鳴った。返事をして、玄関まで迎えに行く。
「お疲れ様。さっきぶりだね。どうぞ入って」
「ありがとう、そっちもお疲れ。遅くにごめんね」
「ううん。お茶準備するから座って待ってて」
「はーい。お邪魔しまーす」
彼に声をかけてキッチンでお湯を沸かしていると、彼が洗面所から出てくる気配がした。
いつものように話しかけてくるかと思ったのに、静かなまま。少し不審に思いつつもお茶を入れてリビングに向かうと、珍しくぼーっとしている。
「どうかしたの?」
「ん?いや、なんもないよ。なんで?」
「珍しくぼーっとしてるから」
声をかけると、私が来ていることに気づいていなかったのか、少し驚くも、すぐにいつも通り。でもやっぱり何か変。
不思議に思ってじっと見つめていると、彼の手が近づいてきて、目を覆われる。
「話すからあんま見ないで」
「やっぱりなんかあったんじゃん」
目に被さる手をそっとどかして握ると、キュッと握り返された。彼はそのまましばらく手慰みのように私の手を触り、少し息をついて口を開いた。
「そんなにたいした事じゃないんだけど、不安になった。…って言ったら困る?」
「……えっ?不安にって、修功くんが?」
驚いて彼を見ると、さっと目を逸らして頷いた。
「不安になるような事、あったっけ?」
この前会った時には何も言ってなかったから、きっと原因は今回のイベントのはずなのだが、昨日も今日もイベントは成功で、不安になる要素など無かったように思える。
「……今日のイベントが終わったあとにさ、廊下のモニターの近くを通った時に君を見かけたの」
「うそ、気づかなかった」
「他の人と話してたみたいだったからね」
「それは話しかけられないね」
そう笑って返すと、でしょ?と返ってくると思っていたのに、彼は少し俯いて黙ってしまった。
「話してたのもあるんだけどさ、僕の知らない君だなって、思っちゃって。なんか、楽しそうだったし。しかも隣には、仕事のできそうな他の誰かがいて、その人は僕の知らない君をいつも見てるのかなと思うと…」
ゆっくり、自信なさげにそこまで言うと、ちらりとこっちに目を向けた。その目が不安に少し揺れていて、いつも飄々としている彼でもそんな事を思うのかと少し意外な気分。
「……やっぱ嫌、だった?」
なにも言わない私に、伺うように尋ねる。
「ううん、全然。……ただ、今まで言われたこと無かったから少し驚いて」
「……実は今までも何回か思ってたんだよね」
「えっ、そうなの?」
「うん」
そんな素振り全く見せてこなかったのに。
「君が大学卒業して働き始める時にさ、僕はまだ院にいるわけで。社会人になったら色んなことを経験して、色んな人と出会って、学生より社会人のほうが魅力的に写っちゃうんじゃないかなって」
ずっと笑顔で応援してくれていたから、そんな本心は初めて聞く。今までより近くにいれないことを不安に思っていたのはお互い様らしい。
「でも、ちょっと意外かも」
「意外って?」
「そういうの、気にしないかと思ってた」
「あー、確かに。君以外には気にしたこと無かったかも。ごめんね」
「謝んないで。というか、むしろ嬉しい」
そう返ってくるとは思っていなかったのか、メガネの奥で黒目がちなその目が数回瞬かれる。
「えっ、嬉しいの?」
「うん。だって、わたしだけなんでしょ?特別みたいで、なんかいい」
そう言って彼を見ると、驚いた顔で一瞬固まって、すぐに微笑んだ。
「変わってるね。ちょっと分かるけど」
「じゃあお互いだ」
しばらく見つめあって、耐えられずにどちらからともなく笑いが漏れる。
ああ、やっぱり。やっぱり彼じゃなくちゃ。彼の方もそう思ってくれているというのは、あながち自惚れでもないかもしれない。