雨に溶ける
「はあ……」4月も終わろうかという金曜日。定時を少し過ぎた時計を見つめ、荷物をまとめながら小さくため息をつく。ちらりと周りを伺うが、他の社員は談笑しながら帰宅準備をしているため、誰にも気づかれてはいない。
3月に大学を卒業し、晴れて新社会人となった。しかし、新しい環境に慣れない仕事。ここ数日、気持ちが落ちていっているのが自分でも分かる。
大量の仕事を押し付けられるわけでも、先輩や上司が嫌な人なわけでもない。ただ自分に余裕が無いだけだ。それなのにどうしようもなく沈んで、その沈んでいる自分の弱さになおさら嫌気がさす。
今日も、本当は仕事終わりに彼とご飯を食べる約束をしていたはずだった。
しかし、今彼と会えばきっと八つ当たりしてしまう。そう思って、昼間のうちに『また今度にしよう』とLINEを送ったが、やっぱり行けば良かった。
私も本格的に仕事が始まり、彼ももうすぐ大学で忙しくなってしまう。最近あまり会えていないのもあり、2人が忙しくなる前に会いたいねと私が言って予定を立てたはずだった。
会いたい。自分が勝手に断ったくせにそんなことを思って、泣きたくなる。送るだけ送って彼の返事は見ていないが、怒っているだろうか。
家に帰りつくまでは泣くわけにいかないと、深呼吸をして気持ちを少し整える。家に帰ったら存分に泣こう。そんなことを思いながら他の人に挨拶をし、オフィスを去る。
エレベーターで降りながら、LINEを確認しようかと思うが、なんだか勇気が出ないまま、迷っている間に着いてしまった。
建物の外に出ようとしたところで、雨が降っていることに気づく。傘は持っていない。朝には降っていなかったせいで忘れていたが、そういえば昨日の天気予報で言っていた気がする。コンビニで買おうにも少し離れたところにしかなく、つくづく運が悪い。
どうしたものかと思いながら外に出た所で、見覚えのあるシルエットが見えた。屋根で濡れないところに、傘を二本持って立っている。
ふと彼がちらりとこちらを見た。私が出てきたことに気づいたようで、にこにことしながら近づいてきた。
「お疲れ様」
「なんでいるの?」
「どうせ傘持ってないかなって思って。持ってきてた?」
首を横に振ると、「やっぱり?」と言いながらケラケラ笑う。怒っている様子はないし、もしかしたら昼間のLINEは見ていないのかもしれない。
それなら彼がみていないうちに取り消して、無かったことにしてしまおうと、彼に断りを入れてスマホを開く。けれど、私の送ったメッセージには既読の文字。
「私のLINE見たの?」
「え?うん、見たよ」
ぱっと顔を上げてそう聞くと、彼はなんでもないように頷いた。
「じゃあなんで来たの」
「……だめだった?」
「いや、だめじゃないけど」
後ろめたさから歯切れの悪い私に、不思議そうな目を向ける。
「残業で遅くなるかもしれないじゃん。それか仕事終わりに友達とご飯食べに行くとか。待っても無駄になるかも知れなかったのに」
「それはないでしょ」
私が言うが早いか彼が遮った。なんでよと目を向けたのが伝わったのか、少し笑って宥めるように言葉を続ける。
「仕事なら仕事だからって絶対書くでしょ、あなたなら。友達との予定でもそう。まあ、先約を優先するだろうからそれはないかなと思ったけど」
「………」
「どっちにしろ、予定が変わったから行けないなら書くかなと思って」
憎たらしい。そうやって見透かしたように言う彼も、彼の顔を見ただけでほどけそうになる自分の心も。
俯く私の顔を、彼がいきなり覗き込んだ。
「なぁにそんな泣きそうな顔してんの」
少し困ったように笑ってそう言うと、私の頬に触れた。泣かないようにと無意識に強ばっていた顔の力が少しだけ抜ける。
「帰ろ?」
そう言って彼が手に持った傘を差し出した。それを受け取り、二人で傘を開いて歩き始める。傘のせいで少し遠い距離がもどかしいけれど、雨が傘を打つ音が心地よい。
「ごはん、おうちで食べる?」
「えっ、あ……うん、そうする」
雨の音にかき消されないように、いつもより大きな声で彼が尋ねる。てっきり今から二人で食べに行くのかと思っていたが、彼にそのつもりはないらしい。自分から断った手前、やっぱり一緒に食べようとも言えない。
「どうかした?」
肩を落としたのが伝わったのか、心配そうに見つめられる。
「いや、二人で食べるのかと思ってたから」
柄にもなく白状してしまったのは疲れているせいということにする。
「え、二人で食べるよ?」
「でもおうちでって…」
「うん。おうちで二人で食べるつもりだったの。外で食べるには疲れてるかなって」
「なるほどね」
「それでいい?」
「もちろん」
欲しい時に欲しいものをくれるから、同い年のはずなのについ年上のように甘えてしまう。きっと家に帰ったら、あれよあれよという間に溜め込んだものを吐かされるのだろう。
隣で笑える人は沢山いるけれど、彼の隣でなら安心して泣くことも出来る。彼にとっての私もそうであったら良いのにと思いながら傘を少しぶつけてみた。