午前一時の甘やかし
『今から帰ります。遅くなるから先寝てていいよ』
家で彼の帰りを待っていると、その彼からLINEが来た。今日は彼が企画したオンラインイベントの日で、もともと遅くなるとは言っていたけれど、トラブルのために予定していた時間よりもだいぶ遅くなったらしい。
遅くてもこの時間には帰れると思うと言っていた時間から短針が一つずれた時計を見つめて、ため息をつく。時間が遅いことに対してではない。そうやってすぐに強がることに対して、だ。
文字だけでは、彼がどんな顔で打っているかはわからない。文面はいつも通りではあるけれど。
「そんなわけないよねえ…」
ぼそっと言った言葉は、一人の部屋に思いのほか響く。
今日のために色々なことを準備して、成功させようと意気込んでいたのを知っているから、帰ってきた彼になんと言えばいいか分からない。きっと無理して笑うのだろうと容易に想像できてしまう。
落ち込むのを見せたくなくて先に寝ていいなんて言ったのだろうが、そこではいそうですかと寝られるほど図太い神経はしていない。恋人なのだから弱っているところくらい見たいと思うけれど、そうはさせてくれないらしい。
美味しいご飯で誤魔化されるほど幼稚ではなく、単純な慰めの言葉で心が軽くなるほど簡単なことではない。一体どうすべきだろうかと考えあぐねながら、彼が返ってくるのを待つ。
ガチャリと静かにドアを開ける音がした。玄関まで迎えに行き、声をかける。
「おかえり」
「ただいま」
笑ってそう返した彼は、その笑顔がぎこちないことには気づいているのだろうか。声をかけようと私が口を開く気配を感じたのか、
「先寝といてって言ったのに」
と先手を打たれる。
イベントは私も参加するねと言ってあったから、落ち込んでいる原因を私がわかっていることは、彼も知っているはずだ。触れないでくれ、という意思表示だろうか。
こうなったら、何も言わずにとことん甘やかしてやろう。洗面所に向かった彼の背中を視界に入れながら、そう心に決める。
「ご飯は食べたんだよね?」
「うん、食べた」
「じゃあお風呂行ってきなよ。着替え用意しとくから」
「自分でやるからもう寝なよ」という彼を脱衣所に押し込めて、タオルと彼の着替えをとりに行く。あがったらすぐにドライヤーをかけられるように出しておき、ベッドも整えておく。よく眠れるようにディフューザーも炊いて、最後に飲み物を用意すれば彼を甘やかす準備は完了。
しばらく待っていると、彼が脱衣所から出てきた。
「まだ起きてるの?」
「うん。ほら、ここ座って。ドライヤーかけてあげる」
「至れり尽くせりだねえ」
大人しく私の足の間に収まる彼の顔は、先ほどより幾分柔らかくなったよう見える。髪を乾かし終えてドライヤーをしまって部屋に戻ると、彼は元の位置から動かずに空虚を眺めている。
「よしくん、寝るよ」
「ん?ああ、先寝てていいよ。僕もすぐ寝るから」
ああもう、それで私が素直に寝るとでも思っているのだろうか。どうせ考え事を始めて、夜の思考に引きずられていくに決まっているというのに。そんな恋人を前にして放っておくような人間だと思われているならば心外だが、きっとそんな余裕がないだけなのだろう。
「だーめ。ほら、一緒に寝るの」
言い聞かせるようにそう言って、カーペットに座る彼の前に両手を差し出す。と、彼がこちらを見た。やっと目が合う。
「ね?寝よ?」
まっすぐ見つめて言うと、彼がゆっくりと手をのせて立ち上がった。手をつないだまま寝室まで向かって、ベッドにもぐりこむ。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
一度閉じた目を開けると、目をつむった彼の顔が目の前にある。安心してもう一度目を閉じると、名前を呼ばれた。閉じた目はそのままに、「なあに?」と返す。
「あのさ……」
「……」
「……ありがとね」
「……うん」
何が、とは言わずにただ礼を言われた。それ以上何も返さずに、眠ろうとする。ベッドの中で、重ねたままだった手がきゅっと握られた。