夢うつつ

「…もしもし」
「もしもし」
「ふふっ、伊沢さんだ」

電話越しに小さく笑う声が、鼓膜を揺らす。久々に聞いた彼女の声に、緩く口角が上がった。
 数日前、時間があるときでいいから少し電話しませんか?と言ってきたのは彼女のほう。ここ最近俺の仕事がまた忙しくなり、ろくに会えていないがための案だった。
 普段遠慮がちなかわいい恋人のお願いとあっては、叶えないわけにはいかない。それに、俺としても声くらいは聴きたいと思っていたから、願ったり叶ったりな提案だった。
 本当は直接会って顔を見たいのだけれど、俺の都合なのだから仕方がない。俺なんかよりも彼女のほうがずっと我慢しているだろうというのは容易に想像できる。
 今だって、時刻はもう23時を少し過ぎている。いつもの彼女ならとっくにベッドに入っているころだ。なのに、俺と電話をするためだけに頑張って起きておくというのだから健気なものだ。

「今日は仕事休みだったよね」
「休みでした」
「何してたの」
「今日は午前中部屋の片づけして、その後少し買い物に出かけました」
「なんか買った?」
「買い物って言ってもスーパーですよ?普通の物しか…あっ、でも、明日お菓子作るからその材料は買いました」
「そっか」

ふわふわと波間を揺蕩うような声で、楽しそうにそう話した。その合間に聞こえる衣擦れの音から、彼女が床に就きながら電話をしているのだとわかる。
 ふと、俺の相槌を境に彼女が黙ってしまった。

「どうかした?」
「えっ、あ、いや……。ちょっと、恥ずかしくなっちゃって」
「なんでよ」
「……伊沢さんの声が」
「うん」
「……いつもより、甘いから」

恥ずかしさに耐えきれないといった様子でそう言った彼女はあまりにいじらしくて、もし目の前にいたならば抱きしめてしまいそうなくらい。

「ちょっと、なんか言ってくださいよ。恥ずかしいんですから」
「ははっ、ごめんって」

なるほど確かにいつもよりも甘いのかもしれないと思いながら、緩む頬を押さえる。
 そのまま何気ない話を続けていると、気づかぬうちに日をまたいでいた。最近の仕事の話をしている途中で、ふと電話の向こうが静かになったことに気づく。彼女の名前を呼んで「寝た?」と尋ねると、はっと息を吸った音のあとでもぞりと動いた気配。

「寝てないです」

かすれ気味の声でそう返されても、説得力などまるでない。

「もう眠いでしょ、日付超えちゃってるし」
「……眠くないです」
「もう今にも寝そうじゃん。ほら、もう寝なよ」
「やです。まだ話します」

そんなことを言いながら、語尾は消えそうなほど小さくなっている。

「わかった。じゃあ俺の話でも聞いといて。相槌とか打たなくていいから」
「……ん」

話を始めて数分で聞こえてきた寝息に、思わず笑いが漏れる。全く、どこまでも健気で困ってしまう。

「おやすみ」

誰にも聞かれることの無いそれは、我ながら恥ずかしいくらいに甘い。返事の代わりの寝息に目を細めながら、そっと電話を切った。



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