日常も、特別も、
追われていた仕事がひと段落つき、ため息をこぼしながらPCの電源を落とした。小さく伸びをして時計を確認する。本来もっと早くに帰れる予定だったのだが、思わぬミスが見つかりすっかり遅くなってしまった。他の企業も関わる案件でのミス。修正できるタイミングで発覚したことは不幸中の幸いだが、いずれにしろあってはならないもの。直接的な原因は別の社員の子にあるとはいえ、何度も確認しているはずなのに今日まで気づけなかった責任が俺にもある。胃が掴まれるような焦りは、何度経験しても慣れるものではない。
次にまたこういうミスが起こらないように、対策を考えなければ。帰り道、そればかりを考えていたらいつの間にか家に帰りついていた。
この空気を家に持ち込む訳にはいかないと、エレベーターが昇る間に切り替えようとするけれど、なかなか頭から離れてくれない。最近ミスが減っていただけに、1度のミスが気になってしまう。
結局気分は切り替えられないまま、玄関のドアを開けた。
「ただいま」
リビングのソファに座る彼女に声をかける。
「あっ、おかえりなさい。遅かったね」
俺を視界に入れた彼女は、そう言ってふわりと微笑んだ。ピンと張っていた気持ちが、緩んだ気がした。落ち込んだ雰囲気は出さないようにと心掛けていたはずなのに、心なしかその笑みはいつも以上に優しい。
不思議なもので、ああ帰ってきたなと思えるのはいつも、玄関の扉を開いたときでも鞄を置いたときでもなく、彼女の「おかえり」を聞いたとき。今日だって、ミスを引きずる俺の気持ちを一瞬で引き上げてくれる。
いつのまにか、すっかりあの柔らかな声が俺の安心する場所になっていた。
手離したくないな。
今ご飯の用意するねと立ち上がった彼女を見つめながら、そう思った。
鼻歌交じりにキッチンに立つ彼女に徐ろに近づき、後ろからそっと腰に手を回した。驚いて向き直ろうとしたその肩にあごを乗せ、振り向かないようにと腕に少し力を込める。
「──、」
耳元で静かに名前を呼ぶと、普段と違う雰囲気を感じたのだろう。彼女は戸惑いながら、俺の言葉を待ってくれた。
一世一代の大勝負であるはずだというのに、心の中はやけに凪いでいる。すぅっと自分の息を吸う音がやけにはっきりと聞こえる気がした。
「結婚しない?」
「っ、」
息を飲んだ彼女は、小さく「え、」と漏らしたあと黙り込んでしまった。腕の力を弱めて彼女の顔を覗き込むと、目を見開いたまま固まっている。咀嚼するようにゆっくりとこちらに向けた顔は、何が起こっているのかまるで分らないといった表情。
「……ほん、とに?」
「うん、ほんとに。俺と結婚してくれませんか」
俺をじっと見つめる瞳に、みるみる涙が溜まっていく。今にも零れそうなところで、彼女が俯いてそれをぬぐった。
「……本当に、わたしでいいの?」
「もちろん」
「拳くんほど賢くないし、女優さんみたいに美人じゃないし、ダメなところも沢山っ、」
俯いたまま口早に言葉を並べる彼女の濡れた頬に指を滑らせると、ぴたりと言葉を止めて顔を上げた。鼻の頭を真っ赤にした彼女を真正面から見つめる。
「俺は君がいいの。他の誰でもなく、君がいい」
「……っ、」
「朝起きて、君におはようって言いたい。ご飯を食べるとき、君といただきますって言いたい。家に帰ったとき、君におかえりって言って欲しい。君のいる場所を、俺の帰る場所にさせて」
この反応でほとんど分かりきってはいるけれど、顔を歪めてしゃくりあげる彼女に、もう一度同じ問いを。
「俺と、結婚してくれますか」
「……はい」
すっと差し出した僕の手に、ゆっくりと彼女の手が重なった。
* * * * *
突然のプロポーズから早3週間。日常の会話に結婚の話が紛れ込むようになったとはいえ、もともと一緒に住んでいたこともあり劇的に生活が変わることもない。
いつも通り二人でゆっくりしていると、「そういえばさ」と彼がこちらに顔を向けた。
「来月の記念日仕事休みだよね?」
「そうだね、休み」
「俺も仕事早めに終わらせるからさ、ご飯でも食べに行かない?」
「えっ、いいね。行きたい」
「じゃあ決まりね」
そっかもうそんな時期か、などと考えながら、スマホのスケジュールの4周年と書かれた隣に”デート”と打ち込んでおく。まだ時間はあるというのに、何を着ていこうか、どんなメイクで行こうかと今からウキウキしてしまう。まるで初デートの時のような浮かれ具合だなと懐かしくなりながら、新しいワンピースを探し始めた。
* * * * *
おろしたてのワンピースに身を包み、いつもより気合を入れた髪型で彼を待つ。そわそわとまるで生娘のように落ち着かない自分に、なんだか恥ずかしくなってくる。
数分待っていると、紺のジャケットを着た彼が手を振りながら歩いて来た。
「お待たせ」
かっちりとした服の彼を見るのは久々で、まるでテレビに出ている彼を見ているみたい。
連れてこられたのは、夜景の見えるホテルのレストラン。記念日にこんな”らしい”ところで食事なんて珍しい。そう思って彼を見ると、その視線に気づいたのか少し恥ずかしそうにえへへと笑った。
時折窓の外の景色に目をやりながら、穏やかに食事を食べ進める。特に大盛り上がりするわけでもなくしかし心地良い会話に、二人とも年相応に大人になったなと、改めて過ごした時間の長さを感じた。
食事を終えてお酒を飲みながら思い出話なんかをしていると、「ちょっと御手洗行ってくるね」と彼が席を立った。きっとお会計をしに行ったのだろうと想像して、随分スマートになったものだなと感心する。
グラスを傾けながら大人しく待っていると、ゆっくりと彼が戻ってきた。席に座らずテーブルの前で立ち止まった彼は、不自然に後ろ手を組んでいる。
「座らないの?」
不審に思いながら尋ねると、彼はそれに答えることはせず静かに深呼吸をひとつ。かさり、という音と共に差し出されたのは真っ赤な薔薇の花束。
「はい、これ」
「えっ……」
驚きのあまり花束と彼の顔の間で忙しなく視線を動かす私を見て、彼はくすりと笑った。
おずおずと花束を受け取った私に満足げに笑いかけて、彼は再び向かいの席に腰を下ろした。真正面から愛おしげに見つめるその視線に耐え切れず俯くと、柔らかい声が私の名前を呼んだ。私が視線を戻すと同時に、彼がジャケットから何かを取り出す。握られているのは、小さな四角い箱。
息を飲んで固まる私の目の前で、彼が箱を開けた。
「俺と、結婚してください」
「えっ、なんで…。プロポーズならこの前…」
「うん。でも、せっかくだからちゃんとした形でやってあげたくて」
仕切り直しじゃないけど、とはにかむ彼が滲んでいく。抱えていた薔薇の花びらに、ぽたりと涙が落ちた。一体誰が二度目のプロポーズなど予想するだろう。
プロポーズは何気ない日のほうがいいかもなんて思っていたのに、いざこうやってされてみるとやはり嬉しいもので、恥ずかしいくらいに涙が止まらない。
「手出して」
差し出した左手の薬指に、ゆっくりと指輪が嵌められる。私の手を握ったまま、彼がじっと私を見つめた。緊張が解けたようにふっと笑った彼につられて、私も泣きながら笑う。
「これからもよろしくね」
「…こちらこそ」
彼の言葉に、涙をぬぐってうなづいた。
二人の日々は、まだ始まったばかり。