魔法の手

 ツンと頬を刺すような寒さにぶるりと肩を震わせながら一人歩く帰り道。つい数日前まで黄色い葉を枝中につけていた木も、連日吹き付ける風に耐えきれずほとんど落ちてしまった。
 せっかくの黄色いじゅうたんも、こんなに暗い中ではただの落ち葉だ。軽やかな音を期待して黄色に混じる茶色い葉を踏んずけてみても、まだ乾ききっていなかったのか、音もたてずに踏みつぶされただけ。期待が外れて思わず零れたため息は、ふわりと白い息になって消えた。
 何だか今日は、気分が落ち込んでいる。ここ数日気持ちが浮上しないなとは思っていたが、今日は一段とひどい。特段きついことがあったわけでもないというのに、一体何に落ち込んでいるのか自分でもよくわからない。
 こんな時、東京にいる恋人に会いに行けたなら少しはマシになったのだろうか。叶いもしない"もしも"を想像して、あまりに遠すぎる距離が恨めしくなった。吹き付ける風が一段と冷たくなった気がして、帰宅の歩みを早める。  家に帰ると、彼からのLINEが来ていた。

『もう帰って来た?時間あるなら電話しない?』

今話したら泣いてしまいそうで怖いけれど、彼の声を聴きたい気持ちが勝った。

『今帰ってきたところ。時間あるから電話できるよ』

送るとすぐに既読がついて、電話がかかって来た。

「もしもし」
「もしもし。おかえり」
「ただいま。最近どう?元気にしてる?」
「うん、変わらず元気だよ」
「それは良かった」

最近忙しそうにしているからどうなんだろうと思っていたが、むしろ充実していると言う。
 キャパが違うなあと、彼を見ていると思う。私だったらすぐに抱えきれなくなってしまうようなことを、彼はやってのけてしまう。忙しくしてるのが好きなだけだよと彼は言うけれど、少し予定が立て込んだだけで苦しくなるような私から見れば、かなり羨ましい。

「君は?元気なの?」
「もちろん、元気だよ」

何気なく尋ねた彼には、落ち込んでるとは言えなかった。ちょっとしたメンタルの不調なんて、数日もたてば解決するのだから、わざわざ言うほどではない。そんなことで彼との楽しい時間をつぶすなんて、嫌だから。
 人の気持ちによく気づく彼にどうかバレませんようにと願いながら、無理やりに笑顔を引っ張り出した。
 それなのに、

「頑張ってるんだね」

労わるような声で、彼がそう言う。ああ、バレちゃった。とっさに涙を堪えた代わりに、喉がぎゅうっと鳴った。

「……頑張ってないよ。頑張れてないの」

絞り出した声に、涙がにじんだ。頑張ってるねと言われることが、あまりに苦しい。そんな言葉をもらう資格なんて、私にはないのに。
 周りを見渡せば、みんなは泣き言も言わずちゃんと自分のやることをこなしているというのに、自分だけが皆みたいに努力できない。だというのに、落ち込むことだけは一丁前で、自分の弱さが本当に嫌になる。

「頑張ってるよ。きみは頑張ってる」
「……」

言い聞かせるように、優しく言う。彼の柔らかい声が鼓膜を揺らした。
 そんなことないと言いたいのに、喉に空気がつっかえたように言葉が出ない。黙って首を横に振るけれど、彼にとってみればただの沈黙だ。けれど、口を開けば間違いなく漏れる嗚咽が怖くて、口を閉ざす。

「それにね、君が思ってるよりみんな頑張ってないんだよ」
「……」
「きみは優しいから、人が努力してるところばっかり目に入るかもしれないけどね、案外みんなちゃんとしてないもんだよ」
「……宏も?」
「もちろん、全然ちゃんとしてない」

大きな口の端を綺麗に上げて笑う彼の顔が目に浮かぶ。眩しいくらいの笑顔を思い出して、また涙が滲んだ。

「だからさ、自分のこと褒めてやんなよ」
「……」
「わかった?」
「……わかった」
「まあでも、君が褒めなくても俺が褒めるから安心して」

 きっとそばにいたならば、あの大きな手で撫でてくれたのだろう。あの感触が懐かしくて試しに自分の手を頭にのせてみるけれど、やはり何か違う。
 次に会ったときにやってとお願いしてみようか。「どうしたの急に」なんて言いながら、やってくれそうだ。
 彼と話をしたら、沈んでいた気持ちが少し上を向いていた。魔法みたいなんて言ったら、笑われるだろうか。

「ありがとね」
「俺はなんもしてないよ」
「言うと思った」

彼が私をすくい上げてくれるように、わたしも彼をすくえていたらいいな。



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