愛してるのその奥に
私が先生と出会ったのは、私がまだ学部生だったころの話。若いながらも成果を上げる先生は、当時から国語文法学の分野においてそこそこ名の知れた学者だった。何となくで学部を選んだ私にとって、先生との出会いはあまりに衝撃だった。今も昔も、変わらず先生は私の憧れの人。
その先生と再会したのは、就職して数年がたった時のこと。大学の同期が主催した同窓会のような飲み会に、先生はいた。記憶より幾分つやのなくなった肌だったが、相変わらず綺麗な人だった。
けれど、学生時代から目立つほうではなかった私が先生に話しかけられるわけもなく、ただ離れた場所から他の誰かの話に微笑む姿を眺めているだけ。当時もこんなだったなと、大学時代を思い出した。相変わらず熱い視線だなと同期たちに茶化される事にも、それを軽くあしらう事にも、懐かしさがこみ上げる。
「惚れんなよ」
同期のうちの一人が、珍しく真面目な顔でそう言ってきた。他の人たちに聞こえないそれは、どうやら本気の忠告らしい。
「惚れないよ。知ってるでしょ?私のこれはただの憧れ、見てるだけなんだって」
怪訝な顔でそう返すと、それなら良いけどと言って席に戻って行った。
同期のそのおかしな態度以外、特に変わったこともなく進んだその飲み会は、比較的早い時間にお開きとなった。二次会の誘いを断る先生を見ながら、私も帰り支度を進める。しばらく先生に会うことはないだろうから、見納めだ。
そう思っていたのだが、それからしばらくして街で偶然に先生と会った。私のことなど覚えていないだろうという予想に反して、先生は目が合うとすぐににこやかな顔で私の名前を呼んだ。先生の記憶に残っていたことに嬉しくなって口角が上がる。
その日なぜか、先生に誘われるまま近くのカフェでお茶をした。とりとめのない話ばかりをする中で、何のきっかけだったか忘れたが、先生の奥さんの話になった。お元気ですかと聞いた私に、先生は寂しげに視線を落とす。
「妻は、亡くなってしまってね」
「えっ……」
「二年前に、病気で」
もう二年も経つんだねえと呟いた先生は、いつもの穏やかな顔とは違う、苦しそうな顔をしていた。
立ち入った話を聞いてしまった申し訳なさと同時に、見たことのない先生の顔に何故だかどきりとして、それが少し後ろめたかった。
先生の新しい仕事場と私の生活圏は近いらしく、あれから何度かばったり出会うことがあった。お互い時間があればそのたびにお茶をして、そのうちに連絡先を交換した。
先生は、よく私を行きつけのカフェに誘う。先生は、最近の仕事の話から家の近所の野良猫の話まで、いろんな話を聞かせてくれた。静かで穏やかな声で語られる先生の話は、どんなに小さい話でも私にとってはまるでおとぎ話のように心地よかった。
そんな風だったから、私が先生を好きになるのに時間はかからなかった。甘いシロップの海に沈んでいくように、音もたてずに底まで落ちていった。驚いたのは、先生も私に同じ気持ちを持っていてくれたということだ。一生誘われなくなることを覚悟で想いを伝えた私に、先生はゆるりと微笑んで首を縦に振った。
そうして今、私は先生の家のソファに座っている。すぐ目の前のローテーブルで、グラスに入った琥珀色がカランと音を立てて揺れた。
隣に座った先生が、私の指をするりと撫でる。
「愛してるよ」
愛おしそうに私を数秒見つめて、先生は静かに言った。妙な擽ったさから逃れるように私は俯く。先生は、奥手に見せかけて、この類の言葉は案外はっきりと口にする。まだまだ子供な私には、それが気恥ずかしくて、でも嬉しくて。
「なんか、意外ですよね」
「ん?何が?」
「そういうストレートな言葉、あまり言わなさそうなのに」
舞い上がった気分のまま、隣に座る先生にそう言った。部屋の空気が、変わった気がした。
「ああ、まあね…」
先生は少し寂しそうに目を伏せて黙り込む。そうして、どこか遠くに思いをはせるような目で虚空を見つめていた。
「……人ってものは、いつか必ず死んでしまうからね」
伝えられるうちに伝えておかないと、後悔してしまう。そう言って穏やかに、しかしどこか物憂げに、先生は笑った。
ああ、これは言わなければよかったな。今私は、先生の隣にいるようで隣にはいない。私がいくら先生の顔を覗き込んだところで、先生の目に私は映らない。
先生は、決して彼女の代わりではないと言っていたし、事実代わりなどではなく愛されているのだと思う。けれど、現実は思い出には敵わない。私が彼女を超えることは、この先私が生きている限りはないだろう。
それでもいいと思っていた。たとえ私と過ごしながら彼女の姿がちらついたとしても、今横にいて先生を支えているのは紛れもなく私なのだから。そう思っていた。いや、思おうとしていた。
本当は分かっていた。自分の心の奥底からそれじゃ嫌だと糾弾する声に、必死に気づいていないふりをしていただけだ。
先生に恋をするのはやめておけ。そう言った同期の言葉の意味がやっとわかった。彼はきっと先生の奥さんが亡くなったことを知っていたのかもしれない。
愛されないからやめておけと言ったんじゃない。愛されるからやめておけと言ったのだ。
今更気づいてしまったところで、どうすることも出来ない。愛してしまったのだから、どうしようもなく。
「そう、ですね」
かろうじて返した言葉に涙が滲んでいないことを祈りながら、私は先生の肩に頭を寄せた。
先生は今、誰を見ていますか。