第四話
「お疲れさまでした」まだ残って仕事をするらしい人たちに挨拶をして、口々に返ってくる挨拶に会釈を返しながら部屋を出る。
廊下を歩いていると、後ろから名前を呼ばれた。振り向くと、今朝話したばかりのあの先輩。荷物を持ってドアに向かっているから、どうやら彼もちょうど帰るところらしい。
「お疲れ様です」
「お疲れ〜。今帰り?」
「そうです」
疲れたねなんて間延びした声で欠伸をする彼と雑談をしながら、廊下を進む。
会社の外に出たところで、ちょうど話が途切れた。
「では、お疲れさまでした」
「あっ、ちょっと待って」
彼に挨拶をして帰ろうとすると、引きとめられる。
「俺も同じ方向だから、途中まで送っていくよ」
新しいオフィスに移ってから徒歩通勤の私は駅とは逆の方向に住んでいて、同じ方向の人などめったに見かけないものだから、てっきり彼もそうだと思ってしまった。同じ方向ならば断る理由も特にない。「ありがとうございます」と素直に受け入れておく。
特段仲のいい間柄ではないため話すことと言えば仕事の話になってしまうが、彼は話のうまい人らしく退屈にはならない。
「なんか聞きたいことでもある?志賀に聞きにくいことでもなんでも」
最近のイベントの話が落ち着くと、彼がそう聞いた。
聞きたいことと言って思い浮かぶのは例の寿退社した女の社員さんの話だが、彼が聞いているのは恐らく仕事の話だろう。
「聞きたいこと……」
「…今朝の話の続き?」
「っ、」
何かあるだろうかと頭を悩ませているところに聞こえた言葉に、驚いてバッと隣を見る。いたずらが成功したような顔は、先輩ではあるがなんとも腹立たしい。私が気になりつつ黙っていたことは分かっていたらしい。
「まあ、気にならないと言えば噓になりますけど」
「じゃあ教えてあげるよ」
「……なんか、良いんですかね」
「んー?志賀に気使ってるなら良いと思うよ。こそこそ探ってるわけでもあるまいし」
「……じゃあ、お願いします」
散々迷っていたが、どうする?と急かす彼に負けて結局そう答える。
「彼女はね、一言で言うと変わった人だったよ。あと掴めない人」
私から目線を外して遠くを見つめた彼は、彼女を思い出しているのか、懐かしそうにくすりと笑ってそう言った。言った本人も世間的にはかなり変わっている部類だと思うが、それ以上なのだろうか。
「彼女も芸大出身でね、特に美術に詳しい人だった」
彼女"も"というのは、「志賀さんと同じく」ということだろう。同じ関心ごとを持つ者同士、仲が良かったのかもしれない。
「美術系の仕事をしたときに志賀は彼女と一緒になって。そっからかな、よく二人が話してるのを見かけるようになったんだよね」
私の知らない、志賀さんの話。なんだか後ろめたいような、でももっと知りたいような。そんな不思議な感覚に胸をざわつかせながら、私は静かに続きを聞いた。
「当時の志賀は今とは全然違ってね。個性を限界まで殺してるような、そんなやつだったよ」
「えっ、そうなんですか」
「そうなの。意外でしょう」
「…意外です」
今の、私の憧れる志賀さんしか知らない私には、まるで想像もつかない。
一体どんな風だったのだろうと考えて、ふと飲み会のときの彼の言葉を思い出した。初めからこうだったわけじゃないよ。そう彼は言っていた。きっとずっと昔の話だろうと勝手に思っていただけに、意外に思わずにはいられない。
「けど、彼女と仲良くなり始めてから、だんだん今みたいな感じになってきて。多分、彼女の影響なのかなって俺は思ってる」
「そうなんですね」
「あいつが大事な仕事のときに着けてるネックレス知ってる?」
「あ、はい。知ってます」
大きなイベントのときには、志賀さんが決まってつけてくるネックレス。動画に映るとなると毎回律儀に外していたから、ずっと気になっていた。
「あれね、彼女がいつもつけてたものなんだよ」
「えっ、」
「途中から、それこそ志賀が変わり始めた頃からあいつが着け始めて。だからてっきり二人は付き合ってるんだとばっかり思ってたんだけどね」
「……でも、ご結婚されたんですよね?」
「そう。結局二人の関係は俺も知らないまま」
俺が知ってるのはここまでかな。あっけらかんと彼は言った。彼女のことは、分かったような気もするし、分からないままな気もする。『掴めない人』と彼が最初に言ったのは、間違っていないのかもしれない。
「君この道まっすぐ?」
「あ、そうです」
「俺ここ右だから、またね」
「あっ、お疲れさまでした」
「はーい、お疲れ」
ひらひらと手を振る彼に別れを告げて、自分の家に向かう。さっきまでの彼の話を反芻しながら残りの家路を歩いた。
志賀さんと彼女の関係は一体何だったのだろう。家に帰って考えてみたところで、分かるはずもない。心にモヤモヤを抱えたまま、その日は眠りについた。