第六話
久々の出社日。会社に近づくにつれて、心臓がバクバクと音を立てる。会社に行く必要のなかったこの一週間の間に、私は自分の見た目をガラッと変えた。
まず、髪を切った。首元が少し肌寒いくらいに短くした。次にピアスを開けた。シンプルなシルバーのピアスがその穴をふさいでいる。クローゼットの中のスカートは全部袋にまとめて、次のごみの日に出せるようにしてある。代わりにそろえたのは、男性が着ていても違和感のない、シンプルなパンツスタイル。
全部、私がずっとなりたかった私。
周りの反応への恐怖は、まだ拭いきれていない。それでも、不思議と心地の良い高揚が勝っていた。新しい自分を見せたい相手がいるからだろうか。
会社に入ると、知っている人に会うたびに驚いた顔で「どうしたの!?」と声をかけられる。
「へへっ、イメチェンです」
胸を張って笑顔でそう言えた自分にも、似合ってるねという言葉にも、今までに無いくらい心が軽くなった。卑屈な自分の性格まで一緒に、変えられそうな気さえしてくる。
なるほど志賀さんの言った通り、案外自分を否定する声なんてものは少なくて、きっと自分が勝手に怖がっていただけなのだ。
いつも使っている部屋に入って、志賀さんの姿を探す。デスクに座る彼は、まだ私に気づいていない。
「志賀さん。おはようございます」
声をかけると、こちらを向いた彼が目を見開いて固まった。
「おはようございます」
固まったままの彼に、もう一度言う。
するとすぐに、彼は満面の笑みを浮かべた。その顔を見ただけで、変わってよかったと、そう思えた。あなたのおかげです、なんてことは、言わずとも伝わっているだろう。
「似合ってるね」
「ありがとうございます」
いつもよりひと際優しげな笑顔を見た瞬間、なぜだかストンと心に落ちた。
ああ、私は彼のことが好きなんだ。彼に、恋をしているんだ。手放しにそう思った。
一度自覚してしまえば、もうずいぶんと前からそうだったような気もしてくるから不思議なものだ。 目の前の真っ暗なPCの画面には、満足げな自分の顔が映っていた。
* * * * *
気づいた恋心を心の大事な場所にしまったまま、一週間ほどが経った。特別アプローチしているわけではないが、気づけば視線は彼のほうを向いていて。バレて欲しいような、バレて欲しくないような、そんな浮かれた気分。
自分の仕事が終わり、いつものように志賀さんに挨拶だけして帰ろうと、彼の姿を探す。ここかなとあたりをつけて覗いた部屋に、志賀さんと、寿退社をした彼女のことを教えてくれた例の先輩。
ノックをしようとしたタイミングでちょうど二人は話を始めてしまい、声を掛け損ねてしまった。どうしたらいいかなと考えながら、「そういえばさ」と彼らが話し始めるのを意図せず盗み聞いてしまう。
「最近あの子、変わったね」
「どの子よ」
「ほら、この前朝話してたときにいた子だよ」
ああ、あの子ねと出てきたのは私の名前。驚いて、思わず息を潜めた。そんな私に気づくこともなく、二人は私の話を続ける。
「そうだね、だいぶ変わったね」
「なんか、いい感じになったね」
「でしょ」
何でお前が自慢げなんだよと志賀さんが突っ込まれているのを聞きながら、顔が緩む。
「んで?」
先輩が志賀さんに聞いた。
何のことだろうと思ったのは私だけではないらしく、志賀さんも「なにが」と聞き返している。
「どう思ってんの、あの子のこと」
ドアの前で、ぎくりと固まった。部屋の中も静まり返っている。今更、立ち去ることも入っていくこともできず、じっと志賀さんの返事を待つ。
「どうって言われても」
そう言ったきり、志賀さんは考え込むように黙ってしまった。顔の見えないこの位置からでは、その沈黙の意味が図れない。
「でもやっぱり、」
再び聞こえてきた志賀さんの声に、息を殺して次の言葉を待つ。
「あの人とは違うなと思うよ」
心臓が、ひやりと冷たくなった。
あの人。名前なんて出していないのに、それがどの人か分かってしまった。
気づけば私は足早にその場から逃げていた。それ以上を聞く勇気なんて、持ち合わせていなかった。私が思っている以上に、志賀さんの中で彼女の存在は大きいのだと、まざまざと見せつけられた気分。
もしかしたら、ほんの一分だけなら、彼の心の隙間に入り込めやしないだろうかと、そんなことを思っていた。勇気を出してなりたい自分になって自信をつけた私なら、彼に見てもらえるんじゃないかと。
その期待は、私の背中を押すには十分だった。
そのはずだったのに。なんだ、勝ち目なんてありやしないじゃないか。
帰り道、ぼろぼろと零れる涙に袖口を押し付けて歩いた。もうやめよう、無駄な期待をするのは。こうして変わるきっかけをくれただけでも十分じゃない。どんなに言い聞かせても、涙が止まることはない。
人間の涙は案外尽きないものなんだな、なんてどうでもいいことを考えながら、また涙が溢れた。