第七話
あれから数日が経ったが、私の日々に特に大きな変化はない。強いて言うならば、ここ最近ずっと志賀さんを追いかけていた私の視線が、あまり彼の方を向かなくなったことくらいだろうか。と言っても、もともと志賀さんを目で追っていたことすら、周りの人には気づかれていないはず。それが無くなったところで、傍から見ればなんの変化もない。
静かに始まった恋が、静かに終わった。ただそれだけだ。私にはこれくらいがお似合いだろう。
「ねえ、ちょっといいかな」
「はい、どうかしました?」
仕事を終え、荷物をまとめて帰ろうとしたところで志賀さんが私を呼び止めた。何かやらなければならない仕事が残っていただろうかと疑問に思いながら振り向くと、やけに真剣な志賀さんが。
「今日この後暇?」
「えっ」
「暇なら、ご飯でも行かない?」
思いがけない誘いに、動きが止まる。何か予定があるわけではないが、何しろ失恋したばかりの相手だ。出来ることならば逃げてしまいたい。
「一回でいいからさ」
さてどうしたものかと数秒逡巡していると、ダメかな?と答えを迫られる。そういつまでも考え込むわけにもいかない。
予定があるので、と体よく断ろうと考えて、ふと直前で思いとどまった。もし今日逃げたならば、私はこれからずっと逃げ続けるのではないだろうか。
それは嫌だ。そう思った。
今までの私ならば、間違いなく逃げていたことだろう。けれど、逃げてばかりの私を志賀さんが変えてくれたから。それが、この恋の証だから。それを無かったことにしたくはない。
「いいですよ。行きましょ」
精一杯の笑顔で答えた私の心の内を、彼は知らないままでいい。
* * * * *
「さて、そろそろ聞かせてくれてもいいんじゃない?」
案外いつも通りに話せるものだな、なんて思いながら、それなりに食事も進んだ頃。目の前のつまみを口に運びながら志賀さんがそう聞いた。
「何のことですか?」
何の話か掴めずに尋ねると、呆れたようなため息をひとつ。
「ここ最近の態度のことだよ」
「えっ……」
「バレてないと思ってたの?」
まさか気づかれていたなんて夢にも思っていなかったせいで、一瞬で頭が真っ白になる。そんな私にちらりと視線を寄越して、志賀さんは箸を置いた。
どうして気づかれてしまったのだろう。迷惑だっただろうか。ただ静かに恋をしていただけのはずなのに。色んなことが頭をめぐる。怖くて、俯いた顔を上げられない。
「…ごめん、なさい」
かろうじて出た言葉は尻すぼみで、今にも消えてしまいそう。
「あの、ご迷惑だったら本当にすみません。もう、諦めたので、その…」
沈黙が痛くて口早に付け加えていると、「ねえ」と志賀さんの声が私を呼んだ。
「顔、上げてよ」
そう言われていつまでも俯いているわけにもいかない。溢れそうな涙を堪えて前を向くと、じっと私を見つめる志賀さんと目が合った。思わず逸らしそうになったのを、彼の視線が許さない。
「諦めちゃうの?」
「……え?」
「だから、諦めちゃうのって聞いてるの。好きなんでしょ?私のこと」
「好き、ですけど。でも、志賀さんは…」
「何を勘違いしてるかは知らないけどね、私はあの人のこと好きじゃないよ」
あの人とは、間違いなく私が思い浮かべる彼女だろう。好きじゃないとは一体。
困惑する私をよそに、志賀さんは話を続ける。
「第一ね、私の身にもなってみてよ。気にかけてた後輩が自分と話したすぐ後にイメチェンして、それを嬉しそうに報告してきて。自分の影響かなって思うじゃん。しかもそれ以来視線を感じるようになったりして」
「………」
「かと思ったら、ぱったり目が合わなくなるし。ほんと、どれだけ振り回せば気が済むの」
「…すいません」
小さな声で謝りながら、戸惑いが隠せない。ずっと迷惑がって怒っているのだとばかり思っていたが、どうやらそうではないような雰囲気。
私の目をじっと見つめる志賀さんは、私の言葉を待っているように見えた。
「あの…」
「ん?」
「私、志賀さんのことが好きです」
「……」
「ずっと、好きでした」
意を決して、言葉にする。緊張して、喉がカラカラに渇く。笑ってしまうほど声も震えていた。一瞬の沈黙が、やけに長く感じる。
すると、ふっと志賀さんが笑った。見れば、いつもの優しい笑顔の志賀さんがいる。
「それがずっと聞きたかった」
それはどういうことなのかと聞きたいのに、固まったように口が動かない。志賀さんが口を開くのが、まるでスローモーションのように見えた。
「私も、君が好きだよ」
え、と掠れた声が漏れた。夢かと疑いたくなる言葉に、全身の血がドクドクと音を立てる。
「私と付き合ってくれますか」
まっすぐ目を見て、志賀さんが言った。
私の答えは、当然決まっている。
「はい」
泣きながら、やっと一言そう返事をする。涙で滲んだ視界に、笑顔で頷いた彼が見えた。