癒しのヴォイスは秘密




保健室の空気は、いつも同じ匂いがする。
消毒液と金属、それから微かに残る薬品の気配。

相澤消太はベッドの端に腰を下ろし、
無意識に天井を見上げていた。

軽傷だ。
そう判断できるほどには、場数を踏んでいる。

それでも、身体の痛みより先に、
心の奥が摩耗している感覚だけが、はっきりと残っていた。

「動かないでください」

声が、落ちてくる。

聞き慣れてしまったことを、
相澤は内心で舌打ちした。

「軽傷だ」

『そういう人ほど、後から響くんです』

柔らかいが、引かない声。
フードを深く被った彼女は、
この保健室では少し浮いた存在に見える。

それでも――
ここに立つ理由を、相澤は知っていた。

ヒーロー humming。
そして、世間を賑わせるアイドル emina。

どちらでもない顔で、
彼女は今、目の前にいる。

「・・・・・来るなら、事前に連絡しろ」

責めるつもりはなかった。
ただ、距離を測り直したかった。

『ごめんなさい』

素直な謝罪。
その一言で、胸の奥がわずかに揺れる。

「……山田、せな」

名前を呼ぶと、
彼女の肩がほんの少しだけ緊張した。

『はい』

短い返事。
それだけで、呼吸のリズムがずれる。

相澤は視線を逸らし、
自分が今どこに立っているのかを確かめる。

――踏み込むな。

そう言い聞かせるのに、
最近は少し、時間がかかる。



せなはベッド脇の椅子に腰を下ろし、
相澤の腕に視線を落とした。

包帯の端から、うっすらと血の色が見える。

『……痛み、残ってます?』

「問題ない」

『……嘘』

即答だった。

相澤が眉を寄せると、
彼女は困ったように笑う。

『顔に出てます』

見透かすような目。
昔から、直視されるのが苦手だった。

視線を合わせると、
境界線が曖昧になる。

「……少しだけ、声出しますね」

確認ではなかった。
淡々とした宣言。

相澤が制止の言葉を探す前に、
せなは静かに息を吸う。

――ハミング。

言葉にならない旋律。
音としては、ひどく小さい。

それなのに。

張り詰めていた筋肉が、
時間をかけて解けていくのが分かる。

痛みが薄れ、
代わりに胸の奥がじんわりと温かくなる。

身体ではない。
もっと深い場所が、ほどけていく。

「……やりすぎだ」

掠れた声でそう言うと、
せなは首を傾げた。

『この程度で?』

「だからこそだ」

相澤は視線を落とす。

「お前の個性は……」

言いかけて、口を閉じた。
説明すればするほど、
彼女を危険な場所へ近づける気がした。

「……人前では使うな」

命令ではない。
願いに近い。

せなは一瞬考えるように唇を噛み、
それから、少し困った笑みを浮かべた。

『相澤さん、心配性ですね』

「これでも教師だからな」

それ以上、踏み込まない。
踏み込めない。



処置を終え、
せなが立ち上がる。

出口に向かう背中を見ながら、
相澤は嫌な予感を噛み潰す。

『また来ます』

当たり前のように言われて、
胸の奥が小さく軋んだ。

「……来なくていい」

本音とは、逆の言葉。

せなは足を止め、振り返る。

一瞬、驚いたような顔をしてから、
柔らかく笑った。

『それは、無理です』

扉が閉まる。

足音が遠ざかっても、
相澤はすぐに動けなかった。

危険だ。

彼女も。
そして、彼女を守りたいと思ってしまう自分も。

触れない。
越えない。

そう決めていたはずなのに。

この距離は、
もう測り直す段階に入ってしまっている。