ローズヒップティー






 ローズヒップティーは、少しだけ酸っぱい。
 

砂糖を入れれば飲みやすくなると分かっているのに、私はいつも、何も足さない。


 それがいつからの習慣なのか、
 はっきりと思い出せないまま、
 佐倉柚葉は今日も同じ選択をする。

 カップの中で揺れる赤い液体は、
 夕方の空の色に少しだけ似ていた。

 綺麗だと思う。
 でも、手放しで好きだとは言えない。

 湯気が指先に触れて、
 じんわりとした熱が残る。

 身体にいいから。
 ビタミンが摂れるから。

 そうやって理由をつけていれば、
 選んだことに後悔しなくて済む。

 多少、胸がきゅっとしても。
 少し、飲みにくくても。

 私はいつも、
 ちゃんとした理由のある方を選ぶ。

 教室の窓際。
 昼休みのざわめきは、
 波みたいに寄せては引いていく。

 誰かの笑い声。椅子を引く音。
 遠くで鳴るチャイム。

 それら全部が、
 ガラス一枚隔てた向こう側にあるみたいで。

 私はひとり、
 ローズヒップティーを飲む。

 その中に、
 聞き慣れた低い声が混じった。

「佐倉さーん」

 名前を呼ばれる前から、
 誰なのかは分かっていた。

「今日もそれ?」

 振り向くと、
 黒尾鉄朗が立っている。

 相変わらず、距離が近い。
 相変わらず、楽しそうな顔。

 からかうのが前提みたいな、あの声。

『……はい』

 短く答えると、
 黒尾くんは私の机に肘をついて、
 カップの中を覗き込んだ。

「渋いよね、それ。高校生で飲む?」

『好きなので』

 嘘じゃない。
 でも、全部でもない。

 黒尾くんは
 「へぇ」と声を漏らして、
 目を細めた。

「酸っぱいの平気なんだ」

 平気じゃない。
けれど、それをわざわざ訂正する必要もない。

『慣れれば、大丈夫です』

 当たり障りのない言葉。
 逃げ道を用意した答え。

 黒尾くんはそれ以上深く聞いてこなかった。
 その代わり、何でもないことみたいに言う。

「佐倉ってさ」

 一拍。

「甘いの我慢するタイプだよな」

 心臓が、少しだけ遅れて鳴った。

どうして、そんなことを言うんだろう。
 どうして、そんなふうに当ててくるんだろう。

『……そんなこと、ないです』

 反射的に答えた声は、
 自分でも驚くほど静かだった。

 黒尾くんは一瞬だけ私を見て、
 すぐに笑う。

「そ?」

 軽い調子。
 いつもの黒尾くん。

 そのまま、
 他の誰かに声をかけて、
 あっさりと離れていく。

 残されたのは、
 冷め始めたローズヒップティーと、
 胸の奥に残る違和感だけ。

 私はカップに視線を落とす。

 赤い液体が、少し揺れている。

 甘さを足さなかったせいで、
 どこか落ち着かない。

 ……違う。

 落ち着かないのは、
 きっとそれだけじゃない。

 黒尾鉄朗は、
 からかってくる。

 誰にでも。
 分け隔てなく。

 だから、
 私に向けられる言葉も、特別な意味なんてない。

 そう思わないといけない。

 私はもう一口、
 ローズヒップティーを飲んだ。

 酸味が喉の奥に残る。

 でも嫌いじゃない。
 慣れている味だから。

 放課後。
 部活の準備で教室が少しずつ空いていく。

 窓の外は、
 オレンジ色に染まり始めていた。

「佐倉」

 帰り支度をしていると、
 また名前を呼ばれる。

 今度は、
 からかう声じゃなかった。

「それ、いつも飲んでるよな」

 振り向くと、
 黒尾くんがカバンを肩にかけて立っている。

「身体にいいんだっけ」

『……はい』

 黒尾くんは
 少し考えるみたいに顎に手を当てて、
 それから言った。

「俺さ、甘い方が好き」

 何の脈絡もない言葉。

 でも、
 胸の奥がざわついた。

「飲み物も、たぶん、人も」

 冗談みたいな口調。
 笑って言うところまで、
 いつも通り。

 私は、
 うまく返事ができなかった。

「佐倉は?」

 問いかけられて、
 一瞬、言葉に詰まる。

 甘いのは、嫌いじゃない。
 でも、選ばないようにしている。

『……さあ』

 そう答えるしかなかった。

 黒尾くんは
 「ふーん」と言って、
 それ以上は踏み込んでこない。

 その距離感が、
 少しだけ、ずるい。

「じゃ、また明日な」

 そう言って、
 黒尾くんは教室を出ていった。

 私はひとり、
 机の前に立ち尽くす。

 カップの底に残った
 ローズヒップティーは、
 もう冷めていた。

 甘さを足さないまま、
 最後まで飲み干す。

 それが、
 私のやり方だから。

 帰り道。
 夕焼けの中を歩きながら、
 ふと思う。

 もし、
 砂糖を入れていたら。

 もう少し、
 違う味になっていたのだろうか。

 でも、
 それを試す勇気は、
 まだない。

 ローズヒップティーは、
 少しだけ酸っぱい。

 それでも私は、
 今日もそれを選ぶ。

 理由をつけて。
 言えない気持ちを、
 飲み込むために。