からかいと距離




 最近、黒尾鉄朗がよく話しかけてくる。

 ……いや、正確に言えば、
 前から話しかけられてはいた。

 ただ、その頻度が、
 ほんの少しだけ増えただけ。

 ほんの少し。

 だから、
 特別な意味なんてない。

 そう思うことにしている。

「佐倉さーん」

 朝の教室。
 席に着く前から、もう聞き慣れた声がする。

「おはよ。今日、早くない?」

 机の横に立つ黒尾くんは、
 いつも通りの調子で、
 いつも通りの距離感だった。

『……たまたまです』

「へぇ。珍し」

 それだけ言って、
 自分の席に戻る――
 かと思いきや。

 戻らない。

 そのまま、
 私の机に肘をついた。

「昨日さ、ちゃんと寝た?」

『……寝ました』

「絶対嘘」

 即答だった。

 どうして分かるんだろう。
 顔に出ていたのかもしれない。

「寝てないとさ、
 佐倉、目合わせる時間短くなる」

 胸が、ひくりと揺れた。

『……そうですか?』

「そうそう」

 黒尾くんは楽しそうに笑う。

 その“楽しそう”が、
 前より少しだけ、
 私に向いている気がして。

 ――気のせい。

 黒尾鉄朗は、
 誰にでも同じように接する人だ。

 からかうのも、
 距離が近いのも、
 全部まとめて、
 黒尾くんという人の性格。

 だから私は、
 深く考えない。

 考えない、
 ふりをする。

「佐倉、今日それ持ってきてる?」

 そう言って、
 顎で指されたのは、
 机の中のマグカップ。

『……はい』

「やっぱり。
 それ見ないと一日始まんない感じ?」

『そんなこと……』

「あるでしょ」

 被せるみたいに言われて、
 言葉が止まる。

 黒尾くんは私の反応を見て、
 満足そうに頷いた。

「だよな」

 どうして、
 そんなふうに言い切れるんだろう。

 私のことを、
 知っているみたいな顔で。

 昼休み。
 教室の隅で、
 ローズヒップティーを飲む。

 酸味は、
 相変わらずだった。

 それなのに。

「それ、ほんと好きだよね」

 隣に立つ黒尾くんの声で、
 心臓が少し跳ねる。

『……はい』

「なんで?」

 なんで。

 前は聞かなかったのに。

『身体に、いいので』

 いつもの答え。

 黒尾くんは、
 ふうん、と言ってから、
 少しだけ声を落とした。

「佐倉ってさ」

 一拍。

「“ちゃんとした理由”ないと、
 選ばないよな」

 ――また。

 当ててくる。

 どうして、
 そんなところまで見ているんだろう。

 私はカップに視線を落としたまま、
 曖昧に笑う。

『……気にしてませんよ』

 それは、
 黒尾くんに言った言葉で。

 同時に、
 自分に言い聞かせた言葉だった。

─────


 翌週の球技大会準備のため、
 放課後はクラスの体育委員が体育館へ集められていた。

 私はクラスの体育祭委員で、
 黒尾くんも同じだった。

 それだけの理由。

 それだけ、のはず。




──── 黒尾side


 近づきすぎたかな、って思う。

 でも、離れる気はなかった。

 佐倉は、俺が距離を詰めると、
 一瞬だけ呼吸が浅くなる。

 目を伏せて、
 何でもない顔をする。

 それを見るたび、
 胸の奥がざわつく。

 からかいは、
 距離を測るための言い訳だ。

 触れない。でも、離れない。
それを選び続けてる。

 佐倉は、
 気づかないふりが上手すぎる。

 だから俺も、
 気づいてないふりをする。

 そうしないと、
 きっと壊れる。



────── 主side


 体育館の中は、
 思った以上に人が多かった。

 テープの位置確認。
 用具の移動・動作・配置確認。
 

「佐倉、こっち持って」

『はい』

 言われた方向へ向かえば、
 自然と黒尾くんの近くになる。

 ――委員だから。

 偶然じゃない。
 仕事だ。

 そう言い聞かせる。

「最近さ」

 ボールを並べながら、
 黒尾くんが、何でもない調子で言った。

「佐倉、俺の近く多くね?」

 指摘されて、
 一瞬、息が止まる。

『……気のせいです』

「ふーん」

 疑うでもなく、
 納得するでもなく。

 ただ楽しそうに笑う。

 それが余計に落ち着かない。

 作業の合間、
 ベンチに腰を下ろす。

 すぐ隣に、
 黒尾くんが座った。

 距離は、
 肩一つ分もない。

「疲れた?」

『……少し』

「だよな。真面目だもん」

 そのとき。

「ねえ佐倉さん」

 クラスの女子が、
 こちらを見て言った。

「黒尾と仲良いよね」

 ――ずるい。

 心臓の音が、
 急に大きくなる。

『え、そ、そんな……』

「だっていつも一緒じゃん」

 笑いながら言われて、
 返す言葉に詰まる。

 黒尾くんは、
 そのやり取りを横で聞きながら、
 何も言わない。

 ただ、
 少しだけ口角を上げていた。

『仲良いってほどじゃ……』

 否定の言葉は、
 弱々しくて。

 自分でも、
 説得力がないと思った。

「ほらー、佐倉さん照れてる」

『ちが……』

「まあまあ」

 そのとき、
 黒尾くんが、
 私とその子の間に割り込む。

「仲良いだけだろ」

 黒尾くんが、
 先にそう言った。

「委員も一緒だし。」

 軽い声。

「な?」

 最後の一言だけ私に向けられた。

 ……逃げ道を、
 ちゃんと用意されている。

『……はい』

 そう答えれば、
 話はそれ以上広がらなかった。

 休憩が終わって、
 それぞれ持ち場に戻る。

 私は、
 少しだけ足を止めた。

 胸の奥が、
 ざわざわしている。

 “仲がいいだけ”。

 その言葉が、
 思ったより、
 引っかかっていた。

 作業が終わる頃には、
 夕方の光が差し込んでいた。

 帰り支度をしていると、
 黒尾くんが声をかけてくる。

「佐倉、一緒帰る?」

 心臓がまた跳ねる。

『……はい』

 理由なんて考えなかった。

 校門までの道。

 並んで歩く距離は、
 やっぱり近い。

「さっきさ」

 黒尾くんが言う。

「否定しなくてよかったのに」

『……?』

「仲良いって」

 一瞬、
 言葉に詰まる。

『……事実ですから』

 そう答えたら黒尾くんは、
 少し驚いた顔をした。

 それからゆっくり笑う。

「そ」

 それ以上、何も言わない。

 別れ道で、足を止める。

「じゃ、また明日」

『……はい』

 手を振って背を向ける。
 歩き出してから、気づいた。

 胸の奥に、
 ほんのりとした温度がある。

 酸っぱいはずの、
 ローズヒップティーみたいに。

 でも、
 今日は少しだけ違った。

 ――砂糖、
 入れてないのに。

 気にしてない。

 私は、
 そう思いながら歩く。

 その言葉を少しずつ、
 上手に使えるようになっていた。