バカでない事の証明

「へくちっ・・・ズル」


警察庁の一角で業務に励んでいた私は、唐突な寒気を感じてくしゃみをした。空調は整っている為寒い訳では無い。どうやら私は、風邪を引いてしまったようだ。たらりと鼻から垂れてきそうな鼻水をなんとかしようと、積みあがった書類の上に置いてあったティッシュ箱に手を伸ばし、ちーんと鼻をかむ。公安警察ともあろうものが、体調管理を怠るとはなんたることであろうか。自分の甘さを叱責しているうちにガンガンと痛んできた頭を抱えて、私は山積みになっている未処理の書類を次々と片付けていく。熱は計らないでおこう。自覚してしまうとよりしんどくなってしまいそうだし。
ちょっと待てよ。ということは、私は風邪を引いていないと思い込むことで、風邪を引いていないことになるんじゃないか?これはいい事を思いついた。私は健康そのものである。頭は痛いし寒気はするが、私は大健康!!
健康、健康と呪文のように心の中で唱えながら仕事に没頭していると、今ここには居ないはずの上司の声で自分の名前を呼ばれ、条件反射で立ち上がる。


「苗字、」
「ふぁい!おつかれさまです!」
「おつかれ。・・・頬が赤いが、暑いのか?」
「いえ、わたしは健康なので。あつくなんてありません」


急に立ち上がったせいか舌がまわっておらず間抜けな返事をしてしまったが、やはり声をかけてきたその人は降谷さんだった。顔が赤い事を指摘されてしまい、なんとか上手い事ごまかすことに成功した。降谷さんは怪訝な顔をしている気がするが、きっと気のせいだろう。
今降谷さんが追っている事件は、私とは管轄が異なる為降谷さんの行動は把握していない。だが、こ・・・恋人として!教えていただけたのは、しばらく忙しくて会えないという事だった。私なんかの事より日本の為に尽力してほしい私は、降谷さんに激励の言葉を贈って、捜査の邪魔にならないようにと連絡も控えていた。それが、なぜ今ここにいらっしゃるのだろう?もう1ヶ月はまともに話もしていないから、もしかしたら私が降谷さん恋しさで幻覚を見ているのかもしれない。会話のキャッチボールは成功しているが、本物かどうかわからない。私は夢うつつな思考で、右手を降谷さんらしき人の頬に伸ばした。


「零さん・・・ですよね?」


ゆるゆるとひんやりとした褐色の頬を撫でる。あぁ、ここに存在している。やはり降谷さんだ。びしりと固まってしまった降谷さんを不思議に思いながらも、これ幸いと憎らしいほどつるりとした肌を堪能する為、右手を動かすのをやめない。
久々の降谷さんの感触に、頬がだらしなく緩むのがわかったが、なぜか感情のコントロールが効かない私はそのだらしない顔のままで降谷さんをじっと見つめる。しばし見つめ合った後、先に降谷さんが伏し目がちに目を逸らした。


「えへへ。わたしのかちですね」
「・・・熱い」


私の手の上から自分の手を重ねて、何かを確認するように目を閉じている降谷さんにされるがままな私は、いよいよ何も考えられなくなっていた。頭がガンガンと痛み、降谷さんが何かを言っているが聞き取れない。床にしっかりと二本の足で立っているはずなのに、ぐにゃぐにゃと視界が揺れ、足元もおぼつかない。このままでは降谷さんに向かって倒れてしまう。それだけは避けなければ。
鈍い思考で、せめて前ではなく後ろに倒れようと、後ろに体重をかけて降谷さんの頬から手を引き抜いた所で、私の記憶は途切れた。







何度か意識が浮上して、ふわふわと空を飛ぶように移動していたような気もするし、その度に降谷さんの声が聞こえた気もする。もしかしたら、その全てが夢だったのかもしれない。そんな夢現な状態から脱出した時、私は見慣れない天井の下でベッドに横たわっていた。はて、先程まで私は警察庁で仕事をこなしていたはずだ。しかし、たくさん仕事が溜まっていた事は覚えていたが、どこまで仕事が進んだかは全く思い出せなかった。少し眠ったからか、先程よりはすっきりとしている。
暖かい布団の中でうーんと唸っていると、鼻水でほとんど空気の通らない鼻がかすかに美味しそうな匂いを捕らえた。優しい出汁の香りだ。それにつられるようにして風邪のせいかまだ少しだるい身体を起こすと、ぽとりと額から生ぬるいタオルが布団の上に落ちた。この部屋の住人が看病してくれていたのだろうか。そういえば、この部屋見覚えがあるような気がする。そこまで考えた所でキッチンの方からお盆を持った降谷さんが入って来て、びっくりして口をぽかりと開いてしまう。


「あぁ、目が覚めたのか。具合はどうだ?」
「え?降谷さん?」
「他に誰に見えるんだよ。あと呼び方。ほら、薬飲む前にこれを食べろ」


仕事中まで名前で呼んでしまわないように心の中で降谷さんとお呼びしているのだが、二人きりになった瞬間零さん呼びに変えるのが難しい。降谷さんはこともなげに切り替えてしまうが、私は基本的に降谷さん呼びになってしまう。何より一番の原因は零さんと呼ぶことの恥ずかしさである。零さん、と呼ぶとあんまり嬉しそうに笑うものだから心臓がやられてしまうのだ。だから、それに慣れるまではもう少し待っていただきたい。
心の中だけでそんな言い訳を捲し立てていると、カチャカチャと音を立てて、私の目の前に卵粥と漬物やネギなどの付け合わせが次々と用意された。先程感じた美味しそうな香りの正体に、私のお腹がぐぅと音を立てて主張を始める。そこでやっとこの部屋が数回お邪魔させてもらった降谷さんの自宅だという事に気が付いた。きっと私は熱を出して倒れてしまったのだろう。そのまま気を失った私を降谷さんが自宅まで運んでくれ、看病してくれた。上司にそんな事をさせるなんて、なんて最低な部下なんだ。絶望と熱のせいで何も言えない私は、ぼーっと手際のいい褐色の両手を眺めていると、いつのまにか目の前に一口分だけ卵粥が乗ったスプーンがやってきていた。


「ほら、あーん」
「・・・あーん」


ぱくり、と差し出されたスプーンに本能でかぶりつくと、降谷さんは楽しそうに笑って次の卵粥を準備し始めた。少し薄味の優しいそれは、降谷さんが私の為に作ってくれたもののようで、嬉しいやら申し訳ないやらで更に落ち込んでしまう。口の中の物を飲み込んだ所で、次のスプーンが目の前にやってきたが、それを見つめているうちに色々な事を思い出してきた。私は、降谷さんに、なんてことを・・・頬とか撫でた気がする・・・すごい間抜けな顔で・・・。サァッと顔から血の気が引いて、反射的に頭を下げた。


「すみません!不躾な態度をとっただけでは飽き足らず、きっと倒れた私をここまで運んでくださいましたよね。その上看病までしていただいて・・・」
「あぁ。急に倒れたから驚いたよ」
「ご迷惑をおかけしまして、」
「迷惑?」


眉間にシワを寄せてそう言った降谷さんは、今にもスプーンを折ってしまいそうなほど握りしめている。あぁやはり怒らせてしまった。甘んじてお叱りを受けようと黙って頭を垂れていると、ゴツゴツとした褐色の手が私の顎を掴み、無理やり持ち上げた。


「んぐっ」
「迷惑なわけないだろ、心配したんだよ」
「ん、むぐ」
「・・・とりあえず飲み込め」


口にお粥を突っ込まれた私は、降谷さんの言葉に返事をしようとしたが失敗してしまい、急いで咀嚼する。少し呆れたように一つ息を吐いた降谷さんは、先程より怒りが少なくなっているようだった。
以前怪我をしてしまった時にも、恋人として心配していると言っていただいたところだったのに、降谷さんの言葉を疑うなど最低だ。私は、恥ずかしさを押し殺して震えないように言葉を発する。


「心配、してくださりありがとうございます・・・」
「恋人の心配するのは当たり前だ。ほら、あーん」
「いえ、あの、そこまでしていただく訳には・・・」
「あーん」
「・・・あーん」


得意の安室さんスマイルでスプーンを掲げられてしまえば誰が断れるだろうか。降谷さんの手ずからご飯を食べさせてもらっているというとんでもない絵面に恐れおののきながらも、結局完食までそれが終わることはなかった。


「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
「いえそんな。本当においしかったです。・・・あの、」
「ん?これ流しに置いて来るから薬飲んで待ってて」


私のやりかけの仕事がどうなったのか不意に気になり、聞こうかと声をかけると優しく静止され、薬とペットボトルに入っている水を渡された。薬を飲み、ペットボトルをサイドテーブルに置き一息つく。キッチンの方から水音が聞こえてきて存在は感じられるのに、ほんの少し離れてしまうだけでも寂しく思ってしまうのは、久しぶりに会えたからか、それとも風邪のせいか。
その後、自分の分のペットボトル片手に戻ってきた降谷さんは、ベッドの脇に座り話を促すように私を見つめる。その幼く見える仕草に胸がきゅうっと音をたてた。あぁ、触れたいなぁ。唐突にそんな欲求が湧き出てきて、その気持ちのままに右手が降谷さんの右手の袖を掴んだ。
じぃっと意思の強そうな瞳を見つめていると、「どうした?」と優しく私が話し出すのを待ってくれる。それがどうしようもなく胸を締め付けて、心の声がぽろりとこぼれた。


「零さん、会えなくて寂しかったです・・・」
「・・・え?」


珍しく顔をかすかに赤らめている降谷さんを見て、自分が発した言葉の意味を唐突に理解した。私、なんて恥ずかしい事を・・・!しかも降谷さんは仕事をしていて仕方がなかったというのに、これではまるで重たい女ではないか。あわあわと両手を振って言い訳する。


「あ、その、別に仕事を邪魔したいなどではなくて!すみません!気にしないでください忘れてください!」
「寂しいと、思ってくれたのか?」
「う・・・は、はい・・・すみません、重たい・・・ですよね」


降谷さんの反応を見るのが怖くて俯いてしまう。しーんと静まり帰った室内に自分の心臓の音が響いているようで、余計いたたまれなくなってしまう。あまりに沈黙の時間が続いて不思議に思い顔を上げると、右手を顔に当てて私に見せないように顔を逸らしている降谷さんが目に入り、驚きで目を見開く。


「あの・・・」
「お前、たまにそういう可愛い事言うよな・・・」


これは、照れているのだろうか。私から確認できるのが耳だけというのと、褐色だということもありわかりづらいが、確かに顔を赤らめて照れていらっしゃる。あの、降谷さんが私の言った言葉で照れているという事実が、私の照れを完全に吹き飛ばしてしまった。
その勢いのままに降谷さんに抱き着いてしまう。鍛え上げられた厚みのある体にどきどきしつつ、ぎゅうっと背中に回した手に力を込める。うへへ、と堪能していると両肩に手を乗せられてべりっと引きはがされてしまった。


「熱すぎる!熱が上がってるんじゃないのか?」
「ふぇ?」
「ほら、薬も飲んだんだから寝ろ」


そういえば降谷さんが二人に見える気がするし、頭も痛い気がする。背中に手を添えて優しくベッドに倒され、私はされるがままに柔らかなそれに体重を預ける。お腹も満たされ、ぽかぽかと暖かい布団に包まれた私はうとうとと眠りに誘われてしまうが、気合で降谷さんの腕をあまり力が入らない手で掴み、声を絞り出した。


「べっどを・・・おかりしてすみません・・・」
「気にするな。ゆっくりおやすみ」
「・・・そばにいてくださいますか」
「あぁ、名前が目覚めるまでここにいるよ」


風邪のせいか心細くなっている私のわがままを、あやすような声で快諾してくれた降谷さんによって、お腹だけではなく心まで満たされた私は、額に感じるやわらかい感触を最後に眠りについたのだった。

要望箱より
妖怪一口女様:風邪をひいた主を降谷さんが甘やかす