あたたかな夢の話を

平日の午前中、誰もが家を留守にしている中、なまえは自宅のマンションの一室で恐怖を押し殺している。後ろ手に縛られ椅子に固定された状態で、変わり果てた姿の弟を見上げる。蒼い瞳が爛爛と光っているように見えた。
「どこがいい?目元は避けてぇが難しいかもなァ…」
かさついた指先が頬を撫でる。僅かに垂れてきた髪を耳にかける行為にすら、なまえの心臓は大きく反応する。
「どこでもいい…!なるべく大きく、目立つようにして。」
痺れを切らして「早く…」と急かした。弟がどんな表情をしているかなんて、気にする余裕はなかった。
「あぁ、わかったよ。」
なまえは口元に差し出された布を咥えて時を待つ。しっかりと絞められたそれには、猿轡の役割を果たしてもらう。頭を優しく撫でる手に、これから焼かれる。
「大丈夫。俺を信じろよ。」
視界の隅で蒼い炎が揺らめく。それからは、ただただ絶叫を噛み殺すことに全ての意識を注いだ。




数ヶ月前───




「お兄ちゃんならわかるだろ!俺は越えられる!」


「越えられるよ……」


「俺を見ろ。」


「これ、まだ痛いの…?」


「もう雪路兄にしか話せない!」


「火が───消えないんだ。」


「ぁあ熱いい!お兄ちゃん!!!」


壊れた拡声器が響くような音に襲われて、一気に意識が覚醒した。カーテンの開いた窓からは月明かりが差し込んでいる。ベッド脇のチェストの上に置かれた時計の針は、未だに夜を表したままだ。水でも飲もうと起き上がった。
「嫌な夢。」
ふいに、何やら物音が聞こえた。玄関の方からだった。不審に思ったなまえは、リビングに行くついでにと、ベッドから下りて寝室を後にした。短い廊下はいつも通り何の変哲もない。玄関の方に歩き、靴箱の上の写真立てを手に取った。二人の少年が笑顔で映っている。なまえは赤髪の少年の姿をなぞるように指を滑らせる。そうして息を吐き、写真立てを元の場所に立てかけた。心が弱っている自覚はあったが、明日も仕事がある。なまえは本来の目的を思い出し、リビングに向かった。ドアを開けると、なまえは氷のように固まってしまう。何かが、誰かが、暗がりの中、そこに居た。
「起きてたのか。」
低い声からして相手は男だとわかる。男の手が触れそうになると、なまえは身を翻して寝室に駆け込んだ。すぐにドアを閉めようとしたが、男の方が上手だった。強引に割り込んてきた男は、いとも容易くなまえをベッドに押し倒した。ベッドシーツに縫い付けられた手首と肩が痛みを訴える。
「やめ、何…ッ、誰なんですか…?」
睨みつけるように男を見上げた。月明かりに照らされた男の容貌に、頭の片隅で何かがひっかかるような感覚があった。骨が軋むほど掴まれていた手首が解放されたかと思えば、今度は首にその手が添えられる。
「誰だと思う?」
男はゆっくりと手の力を強めていく。なまえの抵抗をものともせず、一切手を緩めない。それでも必死に男の手首に爪を立てる。掠れた声を上げ、いよいよ意識がはっきりしなくなってきたとき、歪んだ視界で蒼く光る瞳を捉えた。
「とう、や…」
男は途端にぱっと手を離す。なまえは背を丸めて激しく咳き込んだ。「正解。」とやけに嬉しそうな声がふってきた。なまえの瞳が揺れる。男は──燈矢は、なまえの赤髪に指を絡める。
「久しぶりだな。髪が伸びた。」
そうして今度は頬に触れ、涙の跡を親指でなぞるように撫でた。なまえは息を整えつつ、恐怖と困惑が混じった表情でおずおずと口を開く。
「どうして、燈矢…いや、俺を……殺しにきたの。」
静かな夜である。カチカチと秒針を刻む音が響いている。
「んなわけねぇだろ。俺が身内を手にかけるなんて、そんな馬鹿な真似、するわけ……」
燈矢は再び押し黙った。まるでほんの一秒が余りにも長い時間だと錯覚させられる。
「俺はただ、ずっと……ずうっと前から、こうしたかったんだ。」
言葉の一つ一つに重い感情が乗せられている。気づいたときには、確かに昔の面影が残る顔立ちに視界が支配されていた。なまえの小さな口に熱い舌が強引にねじ込まれた。同時に顎を強い力で固定された。思わず身を捩じり拘束する腕に掴みかかったが、燈矢はそれを許さなかった。咥内には親指が差し込まれ、なまえはよりいっそう追い詰められる。
「ぅ、はッ……ぁ、ぃ゛ッ…!」  
薄い舌を血が出るほど噛まれた後にようやくなまえは解放された。しかし、蒼い瞳は変わらず眼下の哀れな人間を捉えて逃がさない。燈矢は不気味に口角を上げる。
「あぁ、また泣かせちまった。ダメだなァ、ダメだ……もう泣くなよお兄ちゃん。興奮しちまうから………」
咥内は鉄の味で満ちている。開いた口が塞がらず、傷口が空気に触れて尚更ちくちくと痛んだ。震える声で弟に呼びかけた。首元に顔を埋めた燈矢からの返事はなかった。
「俺が怖いか?」
悪魔の囁きに近いそれは、なまえの脳裏に数多の記憶を呼び覚ます。恐れはあったが迷いはなかった。密着した体からは人肌のぬくもりが感じられた。
「怖くない。」
なまえは燈矢の背中に手を回した。縋るような抱擁だった。
「ふ…ふふ、ははッははは」
燈矢も同様になまえの背中に手を差し込むと、抱えながらごろんと寝転んだ。
「なぁ、なまえ。俺がここに来たこと、俺が生きてること、全部、誰にも言うなよ。俺とお兄ちゃんの秘密…いいだろ?」
熱に溶けた目がなまえを射止めた。頭を撫でる手は、先程の暴虐を忘れてしまいそうなほどやさしかった。なまえは小さく頷いた。その日は、およそ10年もの間渇望し続けた温もりに包まれながら眠りについた。

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