飢餓のリリー


 砂を踏みしめる音が妙に新鮮に感じる。冥府にいるとまったく感じない生命の気配がそこらじゅうに満ちていた。人間はあまり好きではないが、この気配を感じるのは嫌いではない。
 それにしても、いつぶりだろうか。こうして人界へ赴くのは。いつもはまわりの景色や空気なんて気にも止めないのに、なぜだか今日はやけにゆったりと感じる。

「……は、くだらんな」

 誰に言うでもなく、そう独り言ちて、ただ足を動かすことに集中する。


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 遡ること数時間前。ほとんどデスクワークが中心の儂に、珍しくディルクから呼び出しがきた。元からあまり精力的に働くほうではないが、いい加減机にかじりつくのも疲れてきていたところで、儂は素直にディルクの待つ断罪の塔に足を運んだ。

「ディルク、なんの用だ」

「入って来るなりぞんざいな口のきき方じゃのう、永逝」

 厳かな雰囲気の部屋は書類の山で埋め尽くされ、その中央にあるデスクに行儀悪く腰かけたディルクが、意地悪そうに笑っていた。

「そんなことはどうでもいい。この儂を呼んだからにはそれなりの用件があってのことだろう。さっさと話せ」

「相変わらずつれないのう……まあ良い。ではさっそく本題に入るとしよう……エマ坊」

「はい、ディルク様」

 堅苦しい黒いスーツを身にまとったエマが、書類の山の隙間からぬっと顔を出した。

「最近、人界の江戸というところで殺人事件が多発しているんだ。それだけなら僕らの知るところじゃないんだけど、」

「……悪霊がらみか」

「半分正解だね。僕らが見逃せないのは、死因もわからない上に魂だけが消失しているってところだ」

 基本的に霊体は生きた人間に干渉することはできない。だが、強い悪意を持った霊体は、人間から微量に発される生命力や、自分よりも力の弱い霊、まだ死神に回収されていない肉体に宿ったままの魂などを糧に力を蓄えようとする傾向にある。そしてそのまま力を蓄え続けると、死神とも対等に渡り合えるほどの強い力を持つ悪霊となってしまう。
 そこまでになると、人間に取り憑いて生命力を吸い取るなどして、生きた人間に害をなすようになる。しかし、悪霊に生命力を吸われ続けた末に体を壊して死に至る人間は確かに多いが、死因がわからないような不可解な死を遂げるという事例はあまり多くはない。
 ただし、犯人が悪霊であるならばの話だが。

「まさか、」

「うむ。……今回、拙は“死神”も関わっておるやも知れぬと思うておる」

 予想していたとはいえ、頭に軽い鈍痛を覚えた。確かに、死神の持つ“神具”ならば外傷を一切与えずに魂だけを奪うことができるだろう。

「……じゃが、想像の範疇を出ぬ。実際のところ、犯人と思しき悪霊の姿も目撃されとるしのう」

「で、儂の出番というわけか」

 ディルクはイタズラっ子のような笑みを浮かべ、大きく頷く。

「断言はできぬが死神が関わっておるやも知れぬし、関わっておらぬとしてもただの悪霊というわけもなかろう。……受けてくれぬか」

「どうせ断れば雑用を押しつける気だろう。……それに、儂もそろそろ退屈していたところだ」

 にやりと笑い返せば、ディルクはいっそう笑みを深くして机から下り、長いマントを靡かせながら声高々に儂に命を下した。

「普通課病死部部長 永逝に“事件の詳しい調査および悪霊と化した魂の回収”を命ずる!」


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 それにしても江戸という国の人間は不思議な服を着ている。他の国も大概なものだが、あの服はかなり動きにくそうだ。確か徒桜も最近同じような服を着るようになったが、あんなものを好き好んで着るなんて物好きにもほどがある。
 そんなくだらないことを考えていると、ふいに話し声が聞こえてきた。

「聞いた? また死人が出たんですってよ」

「あら、ほんとうに? 怖いわねぇ」

「いよいよ祟りじゃないかって噂よ」

「そりゃそうよ。なんたって無傷らしいじゃない」

「あたしたちも祟られないよう気をつけなくちゃね──」

 話の内容からするに、この辺りでも事件は起きているらしい。なんのあてもなくふらついていただけで、こうも早く事件の話を聞けるとはさすがに思っていなかった。このままこの辺りを捜索していれば、あるいは事件に出会せるかもしれない。さっきまでよりも幾分か軽い足取りで儂は歩を進めた。


 足が鉛のようだ。数時間前までの軽さが嘘のように、今は足を引きずってやっと歩いている。死神は精神体だが疲れないわけではない。確かに多少は人間よりも丈夫だが、人界という慣れない世界で歩き続けて疲れないわけがないのだ。
 儂はどこか休めそうな場所がないかと、民家の多い道を歩いていた。

「……なんだ?」

 ごくごくわずかだが、死神の気配を感じる。他のことに気を取られれば感じられないほどのあまりに弱々しい気配。だが、間違えようもない確かな死神の気配。それを辿るように歩いてみたが、この周辺にいると感じられるくらいで、正確な位置まではわからない。
 あきらめて元の道に戻ろうとしたところで、儂は庭に咲き誇る青い紫陽花に目を奪われた。すべての花が一様に美しい青さをたたえているさまは、息を飲むほどのもの。そして、その庭の主であろう少女が、その紫陽花と同じ色味の服に身を包んで、こちらをじっと見ていた。

「………!?」

 こちらを、儂を、見ていた。
 驚きのあまり身を引こうとしたそのとき、そう遠くもない距離から女特有の耳をつんざくような甲高い悲鳴が聞こえる。急いで向かおうと一瞬だけ少女に目を向けると、少女は視線を声のしたほうへ向けていた。きっと気のせいだろうと煩わしい自分の思考を一蹴し、疲れの溜まった足に鞭打ちながら走る。
 思った通り、少し走るだけでその場所についた。さっきの悲鳴の主であろう女は地面に倒れ伏し、すでに事切れていた。言うまでもなく、無傷で。

「あまり感知は得意ではないのだがな……仕方ない」

 全神経を集中して、この近くにいる“器なき魂”を探す。

───いない。

───いない。

───いない。

────見つけた。

 すばやく行動に移す。さっきまでの疲れもあるが、それを上回るほど儂は歓喜していた。あまりに予想通りすぎて笑いまでこみ上げてきていた。
 ようやく、前方に黒い影が見える。細い道を抜け、広い空き地に出ると、こちらに背を向けていた黒い影が振り向く。大きく裂けた口がにやりと弧を描いた。

「あれぇ? もしかして死神さんなのぉ?」

 至極楽しそうな声色で、悪霊は問う。波打つ長い髪らしきもので輪郭がはっきりしない悪霊は、相当な数の魂を食らったのだろう。見ただけでかなり肥大化しているとわかる。

「ああ。このあたりで畑を食い荒らす卑しい野犬がいると聞いてな……だが、想像以上に醜く肥え太っているようだが」

「ひっどぉ〜い! 成長したって言ってよねぇ」

「は、事実を言ったまでだ」

「きみ、嫌なやつだねぇ。そんなんだとみぃんなに嫌われちゃうんだからぁ」

 話している間も足は休めない。少しずつ、相手との間合いを詰めていく。あともう少し近づけば“左手”が届く。そうなればもう、一瞬だ。さすがにそううまくはいかないだろうと思いながらも、今日の運の良さを考えるとありえなくもないかもしれない。

「……あ、でも“神殺しの永逝”を好きな奴なんていないかぁ」

 思わず足が止まった。その一瞬の隙に、悪霊は弾丸のように一直線に儂の腹部に強烈な跳び蹴りを入れる。儂の体はそのままの勢いで吹っ飛んだが、右手を地に着き、なんとか倒れずに留まった。

「ぐ、ぅ……ごほっ、ごほっ」

 ぼたぼたと口から溢れ出た少量の血が、地面に染みを作っては消えていく。久々に感じる痛覚としては、あまりに急すぎて頭がいまいちついていけていなかった。腹を軽く押さえると、ごぽりと血の吹き出す感覚がする。骨がいくつか折れて内臓が傷ついてしまったらしい。だが、死神の治癒力で治せない傷ではない。

「あれぇ? 今の殺す気でいったのにぃ。やっぱり死神は違うなぁ」

「ふん、儂を誰だと思っている。“四百四病の永逝”だぞ」

「しひゃくしびょう? ……あ、そっかぁ。きみはそう呼んでるんだったよねぇ」

「……貴様、何が言いたい」

 睨みつけると、よりいっそう笑みを深くする。そのにやついた笑みがやけに苛立って仕方がない。いつもならこんな雑魚、相手ではないはずなのに。

「うふっ。私はリリー、“飢餓のリリー”! よろしくねぇ“神殺しの永逝”さん♪」




=====


 ひどく、気だるい。
 体の全身の細胞が活動しているのかも怪しくなってくる。それ以前に、私に肉体などないのだけれど。あの日以来、いつも胸には大きな穴が空いているように感じた。それを埋めたくて、食べる必要もないのに食べてみたりしたけれど、どうしても埋まらなかった。
 こういうのをなんと言うのだろう。怒り、悲しみ、それとも虚無感だろうか。どれも違うような気がした。
 そうだ、きっとこれが“飢え”というものなのではないだろうか。食べる必要もなくて、感じたこともないものだけれど、きっとそうなのだろう。私は飢えているのだ。
 埋められない飢餓に、私はあの日からずっと苦しめられてきたのだ。どうすれば、どうすれば、この飢えを癒せるのだろう。
 いったい、どうすれば。


=====




「……っはぁ、はぁ、はぁ」

「あれぇ? もう疲れちゃったのぉ?」

 あれからもう1時間近く経っている。悪霊は一向に疲れを見せない。当然と言えば当然なのだが、同じ精神体の身であるこちらとしては苛立ちが募るばかりだ。さっきから力を行使しようとしても、素早く避けられるか迎え撃たれてしまうことも含め。いや、違う。それは言い訳だ。
 飢餓のリリーと名乗った悪霊は、死神の中でも一部しか知らないはずの儂の“忌むべき過去”を知っている。“神殺しの永逝”の名を、知っている。動揺していないと言ったら嘘になる。長らく耳にしていなかった名だ。

「悪霊、貴様は儂のことをどこまで知っている?」

「ん〜? ぜぇんぶ知ってるよぉ。それが交換条件だったからねぇ」

「交換条件……?」

「おぉっと、いっけないいけなぁい。ついしゃべっちゃうとこだったよぉ」

 やはり、この悪霊はなにかを知っている。そもそも、儂のその名を悪霊が知るすべはないのだ。人界に降りてこない神か、一部の死神から聞かない限りは。悪霊を見つけたときディルクの推測ははずれたかとも思ったが、どうやらあながち間違いとは言い切れなくなったらしい。

「でもでもぉ、私はほんとにラッキーだったよぉ。こんなに早く永逝さんに会えるんだもん」

「……どういうことだ」

「私の目的は“純血の神様”を喰べちゃうことなんだぁ。でも神様ってそうそう降りてこないからねぇ……きみ以外は、だけどぉ」

 くらりと目の前が歪む。まただ。また儂の見たくない現実を無理矢理見せられる。
 純血の神。生まれたときから神であり、主神に神として創られた“七情神”の血筋。それが、純血の、

「黙れ」

「えぇ?」

「黙れと言っているんだ、下衆」

 頭の奥が沸騰したかのように熱い。今までどれだけ命を狙われたかなんてもう覚えていない。だが、今までこれほどまでに怒りを感じたのははじめてのように思う。疲労や全身の傷はもう跡形もなく消えていた。
 動こうと思う前に体が先に動く。呆気に取られていた悪霊にめがけて左手を突き出すが、直前で避けられる。だが、儂の攻撃を避けた直後、浮遊していた悪霊は不自然に地面に倒れた。

「グ、グギュウゥゥヴヴヴ…」

 不気味な呻き声を上げながら地面にめり込む悪霊を、儂は眼下に見据える。どうしてこうも弱い雑魚にいいようにされていたのか、数分前までの自分がわからない。最初からこうしていれば良かったのだ。儂はもう神ではないのだから。
 呻き声もほとんど聞こえなくなってから、儂はようやく悪霊を解放してやる。だがもう浮遊する余力すら残っていないのか、地面に仰向けに転がったまま苦しげに儂を見ていた。

「な……なにを……、」

「ほう、わからないか。儂のことをすべて知っているのではなかったのか?」

「知ら、ない……こんなのは、聞いてない……!」

「なにを言っている。儂ははじめに言ったはずだ」

 意味がわからないというふうに悪霊はただ儂を見続ける。さっきまでの余裕ぶりからは想像もできないほど狼狽している姿に、思わず口角が上がる。

「儂は、普通課病死部部長の死神“四百四病の永逝”だ。その部長たる儂が、死神の力を持っていないわけがないだろう?」

 赤い目を見開くのを横目に、儂が左手で悪霊に触れると、びくりと震える。儂が今からなにをしようとしているのかわかっているのだろう。確かにここまで肥え太ってしまってからの魂化はかなりきついものがあるが。いや、それ以前に生に執着したからこそここまで肥え太ったのだ。魂化されるということは精神的に死ぬということなのだから、怯えるのは当然だ。

「……魂化する前に聞いておきたいことがある。貴様には協力者がいるようだったが、それは何者だ」

「ふふっ……そうねぇ、どうせ死ぬなら教えてあげる。……と言っても、顔は隠してたし名前も知らないんだけど……あいつは突然私の前に現れて、私に人間から魂を剥ぐ方法ときみの情報をくれる代わりに、“飢餓のリリー”って名乗って魂を集めろって言われたの」

「魂を? なんのために」

「さぁね、理由は知らない。そうすればきっときみが来るって言われたから、乗っただけだもの」

「そいつは悪魔か? それとも……死神か?」

 たとえ顔が見えなくても、相手が悪魔か死神かくらいはどんな精神体にでもわかるはずだ。悪霊はにやりと笑って、呟いた。
 「死神」と。
 その瞬間、体に衝撃が走る。

「──……、」

 さっきまでぐったりとしていたはずの悪霊の腕が儂の腹に深々と突き刺さっていた。反射的に、悪霊に触れていた左手で魂化する。悪霊の苦痛による断末魔が遠く聞こえた。霊魂が集約され、ビー玉よりも大きく水晶玉よりも小さな、黒い玉のような姿になった魂がぽとりと地に落ち、腹からは血が滝のように溢れ、黒いコートをさらに黒く染めていく。
 一番最初のそれよりもあきらかに多く吐いた血が、地面を濡らす。死神の治癒でも、さすがに今すぐ治るわけじゃない。これほどひどい傷なら、数時間はかかるだろう。冷静にそんなことを考えていると、だんだん意識が遠くなってくる。気を失った死神ほど悪霊にとってのごちそうはないのだと、アヴァロン院でこっぴどく言われてきたことを今更ながら思い出す。
 この儂がこんなところで死ぬなど、お笑い草もいいところだろうな。
 そう思いながら、儂は地に伏した。

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